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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■解放の物語
「向こう岸に渡ろう」。そうして辿り着いたガリラヤ湖の対岸は、シモン・ペトロたちにとっては、近くて遠い場所、汚れた異邦人の世界でした。弟子たちは主イエスによってゲラサの異邦人に出会わされました。いや、彼らはここで自分こそ「ただの異邦人」であったことを気付かされ、変えられることになったのです。
荒れ狂う波を従わせ、対岸へと渡る、それは出エジプトにおける「葦の海の奇跡」を思わせます。ここには神による「解放」が物語られています。「あなたはわたしの愛する子」「神の国は近づいた」との主イエスの福音は、湖という隔てを越え、民族という隔てを越えて響く、神のまなざしはこの人をも見つめているのだということを、弟子たちは目の当たりにしました。これは汚れた霊に取りつかれた人が主イエスによって癒され束縛から解放された物語であるだけでなく、弟子たち自身の偏見と拒絶という束縛が解かれ、互いに神に愛された者同士として出会う解放の物語と言えます。

■「汚れた霊、レギオン」というフェイク
その人は墓場を住まいとしていました。墓は彼が誰からも見捨てられ、否定され、絶望の中に置かれていたことを象徴します。彼は自分を墓場につなぎとめる鎖を何度も引きちぎったそうですが、町の中には彼の居場所はなく、結局は見えない鎖によってつなぎとめられ続けていました。汚れた霊に取りつかれていた彼は、主イエスに訴えました。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ」。汚れた霊は、「関わってくれるな」「お前と我々は何も関係がない」「無関係な“ただの異邦人”でいろと訴えて、一人の人間を神の愛と祝福とは無関係の「向こう岸」に押し込めようとするのです。しかし、主イエスはまさにそこに関係していくのです。「あなたもまた愛された神の子なのだと」と。
ここで汚れた霊は自らを「レギオン、大勢だから」と名乗りました。それは約6000人で組織されるローマ軍の大兵団の呼名です。「レギオン」の本性とはいかなるものか。わたしたちは、自分を含む人間の利己主義という現実にこそその正体を突き止めることになるでしょう。「汚れた霊」とか「レギオン」という表現は、自分自身の責任や関係性から切り離すために生み出された「フェイク」と言えるのかもしれません。今、世界各地で起こっている悲惨で解決しがたい戦争、力と数が物を言い、命をまさに蹂躙して突き進み留まることを知らない現実は、どんな大義名分をもって正当化しようと、フェイクだらけで利己主義の大集団レギオンです。

■受難節の過ごし方
汚れた霊が豚の大群に乗り移り、怒涛のように崖下の湖になだれ込んで死んだ、と聞いた町の人々は、主イエスに「この地方から出て行ってくれ」と申し出ました。それは、レギオンが「かまわないでくれ」「苦しめないでくれ」と訴えたことと変わりません。豚の大群は死んでも、レギオンはなおここに健在なのです。町の人々はイエスによって自分たちに都合の環境が覆されること、自分たちの安心安全のために不都合な者を墓場に排除している現実が明るみに出されることを拒みました。「どうかこの地方から出て行ってくれ!」そんな人間の訴えが極まったところ、それこそあのゴルゴタの丘、主イエスの十字架の死です。主イエスこそ十字架という鎖につながれ、墓場に葬られた方です。先週から始まった受難節は、イエス・キリストの苦難を覚える日々であり、それはすなわち、十字架に浮彫となったわたしたち自身の罪の現実を深く見つめる時です。そして、その罪の現実の底にある主の憐れみが見出される時です。イエスはご自身の十字架の死をもって、わたしたちにつながり、隣人、いや命の主となって下さいました。このキリストのゆえに、神は今日もこの世の底知れない罪の悲惨な現実を憐れみ支えていてくださるのです。

■自分の家に帰りなさい
主イエスはこの人に告げました。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」(19節)。
主イエスは、ペトロに対するように「わたしに従いなさい」とは言われず、「家に帰りなさい」と告げました。しかし、この人もまた確かに主イエスに従うものとなったのであり、主イエスの福音によって、主イエスと共に生きるものとなったのです。彼には帰るべき自分の家があり、身内がいました。しかし、それはどこであり、誰のことでしょう。彼はその後、デカポリス地方に主の憐れみを言い広めたと記されています。この人の「家」「家族」は広く大きいのです。時に閉鎖的な家族という隔てを越え、彼は「向こう岸」へ歩み出していったのです。その歩みから、主の祝福を信じ、主の憐れみに生きる神の家・神の家族という開かれた交わりが広がっていったのだということが物語られているように思います。
ウクライナの悲惨な状況、再び迎える3月11日、あるいは今のコロナの状況において、今日の箇所は、私たち人間社会の利己的な罪、レギオンを暴露するような苦しい箇所です。神は、私たちが自身のレギオン性に気付き、そこから解放されていくように招き導いておられます。この受難節、時に他者の痛み、他者の尊厳に無関心な「異邦人」となってしまいやすい私たちが、主の憐れみを知り、互いに解放されていく日々といたしましょう。主イエスが「向こう岸に渡ろう」と言われ、弟子たちを導かれたように。悔い改めるとはそういうことです。そこに新しい命、神の国は始まるのです。

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