札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
>札幌北光教会/トップ >牧師紹介・説教 >実現
■到来と拒絶
「主が私を遣わされたのは捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。
主イエスの降誕・到来の意味を示すイザヤ書の言葉がナザレの会堂で朗読されました。
「主の恵みの年(50年毎のヨベルの年)」には、すべての奴隷が解放されて故郷へ帰り、すべての負債は免除され、人手に渡った土地も、獲得した土地も元の所有者へと返還されました。ヨベルの年(主の恵みの年)は、すべてがリ・セットされる年です。この世界が造り主である神のものとして位置づけ直される時です。主イエスは、この恵みの年の訪れを告げ知らせるために来られたというのです。すべての命が、神に愛され、肯定された神の子として位置づけ直されるために。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した」(21節)。主イエスの宣言は、ヨベルの年を告げる角笛の響きに他なりませんでした。「久しく待ちにし」その日が、遂に今日ここにやってきたというのです。
しかし、この箇所の終わり方は不穏です。「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が経っている山の崖まで連れて行き、突き落そうとした。」(28節以下)。故郷ナザレの人々の無理解と拒絶。わたしたちは、これをナザレという小さな町で起きた小さな出来事としてでなく、主イエスに対するこの世全体の態度として読むことが重要です。故郷ナザレの人々の態度は、主イエスを拒絶し、十字架の死をもって排除したこの世界の現実を映し出しています。主イエス・キリストの降誕を喜び祝うクリスマスですが、イエス・キリストは決して、この世から喜び祝われなかった事実に目を向けなければなりません。人の評価というものは簡単に一変するものです。自分の期待や都合に沿わないと判断すれば、その自己中心性から歪んだ正義が生まれ、排除や断罪に向かっていく。エルサレムの人々は、主イエスを歓呼の声を上げて大歓迎したかと思えば、数日後には「十字架につけよ」と叫び、十字架を背負う主イエスに、罵声と嘲笑を浴びせたのでした。
■救い
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき実現した」。ナザレの会堂での宣言は、結局実らず、十字架の死と共に無に帰してしまったのでしょうか。
主イエスは共に十字架に架けられた犯罪人にこう告げたのでした。「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」。罪なきイエスが罪人となって十字架で彼らと一緒に死なれた。それは、彼らが思いがけずイエスの死に与り、それゆえイエスの復活の命に与ったことを表わしています。彼らは罪人としては完全に死に、しかし、神の子として解放され、神の園に生きるものとされた。その救いがゴルゴタの三本の十字架は示していました。それは私たちの出来事なのです。ナザレの会堂で告げられた救いの宣言は、十字架によって無に帰してしまったのではなく、十字架によってこそ成し遂げられました。人はキリストにおいて死に、キリストにおいて神の子としてリセットされたのです。
■待望
2000年の時が経過しました。今なおこの世界は拒絶と排除が満ちています。世界の様相は主イエス降誕以前の「暗闇」「死の陰の地」と呼ばれたガリラヤよりも悲惨に思えます。戦争は繰り返され、疫病は続き、飢餓と貧困にあえぎ、自然は呻いている。聖書に記されたイスラエルの苦難の歴史は、決して過去のものではなく現代を映し出す鏡です。まるで主イエスの誕生も十字架の死も無かったかのような。「主の恵みの年」は、本当にやって来たのか。どこにやって来たというのか、そんな空しさを覚えるかもしれません。「なぜ、わたしをお見捨てになったのか」との十字架上のイエスの叫びは、今日世界の至るところで挙げられています。
しかし、だからこそ、わたしたちは聖書が証しする主イエスの復活という出来事に神の約束を見つめ、そこに希望を置くのです。神には、世界中至るところで響く叫びが聞こえず、手が届かず、これらを見過ごされる方ではなく、神は、イエスを死から復活させられたその愛をもって民を導きだして下さる。「わたしはアルファであり、オメガである、初めであり終わりである」と言われる神が、終わり・完成に向かってこの世界この私を導いておられる、その約束にわたしたちは目を覚まし、耳を澄まして生きるのです。この地上に御国をもたらされるその日その時が来ることを目を覚まして待ち望むのです。ヨベルの年は、捕らわれていた者が故郷へと向かっていく恵みの年です。私たちも言うのです。「わたしたちの本国は天にある」と。そしてどのような時も「み国を来たらせたまえ」と祈り、「マラナ・タ(主よ、来てください)」と歌いながら、神が導きゆかれる一日一日に取り組んでいくのです。
⇒ 前のページに戻る