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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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◆主よ、どうしたらよいでしょうか
ローマ守備隊に身柄を捕らえられたパウロは、千人隊長の許可を得て、エルサレムのユダヤ人たちに自分の歩みについて証しを始めました。自分がタルソス出身のユダヤ人であること、高名な教師ガマリエルのもとで薫陶を受け、熱心に神に仕えて生活していたこと、そして、「この道」(4節)すなわち、キリスト者を徹底的に迫害したこと。当時のパウロには、キリスト者撲滅こそが正義でした。それがパウロの生きることそのものだったのです。ところが、キリスト者を捕えるため意気込んで出かけて行ったダマスコへの途上で思いがけない体験をしたのでした。突然、天からの光に照らされ、地面に倒れた自分に呼びかける主イエスの声が聞こえたのでした。パウロは「主よ、どうしたらよいでしょうか」(10節)と尋ねました。それまではキリスト者撲滅こそただ一つの目的でしたが、それが瓦解する体験をしたということでしょう。「自分は何をしたらよいのか」。まるで迷い出た一匹の羊のように切実な問いです。

◆「回心」
「パウロの回心」と一口に言われますが、それは決して心晴れやかにされる喜ばしい出来事ではなかったでしょう。天からの光によって目が見えなくなったのは、それまで持っていた正義というものが見えなくなった、自分の歩むべき道が分からなくなったという意味で光を全く失った挫折、呆然自失という側面の方が強いのではないでしょうか。「主よ、わたしはどうしたらよいでしょうか」。「立ち上がってダマスコへ行け、しなければならないことは、すべてそこで知らされる」。そうしてパウロは、自分の中の正義とか、熱心さに基づいて我が道を突き進む生き方ではなく、主イエスが示してくださる一歩一歩を求めて歩んでいくものと転換していったのです。彼の歩み全体がそのような「回心」の歩みなのです。

◆整わないままに
人々に手を引かれながら到着したダマスコで、パウロはアナニアに出会いました。アナニアはパウロに神の御心を伝え、「今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方(主イエス)の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい」(16節)と促します。パウロにはためらい、戸惑いがあったのです。パウロはアナニアから洗礼を受けたわけですが、イエスを主と告白し、洗礼を受けることについて、何もかも良く分かり心が整って受けたというのではなく、むしろ、心の中ではアナニアが告げた言葉を十分受け止めきれない、神の御心が何であるか、自分が神によって選ばれているとはどういう意味なのか、自分は何のための存在であり、どこに向かって生きていくべきなのか。深い問いの中にいるままなのです。
以前、ある方が祈りの集いでこんなことをおっしゃいました。自分が通っていた教会の牧師から洗礼を進められた時、「まだ気持ちが整わないので今ではないように思います」と応えたら、その牧師から「では、いつになれば整う時が来るのでしょうね」と言われ、はっとしたそうです。主がこの私を知り、呼びかけ、必要として選び出しておられる、その時というものを逃して、自分の時や心が整っているか整っていないかということにいつまでも左右されているのはおかしいと思って、洗礼へと導かれたそうです。パウロに起きたこともそうかもしれません。キリスト者となった後も、数々の躊躇いを覚え、その都度主の言葉に励まされ、慰められ、自分の偏狭な心から解放されて、歩み続けていったのです。私たちも同じです。

◆数奇な人生?
パウロは、ダマスコからエルサレムに帰り、神殿で祈っていた時に主の声を聞きました。「急げ。エルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証することを、人々が受け入れないからである」(18節)パウロは、これに反対意見を述べ自己アピールしました。しかし、主はパウロの考えを打ち消して命じます。「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」(21節)。
パウロは自分の思いとは異なる主の「行け」との言葉に押し出されて、異邦人伝道者の歩みを始めました。パウロの歩みとは、人間の思いから出た「我が道」ではなく、どこまでも「主の道」であったということです。そして、いま再びエルサレムに帰って来て、あの日、主からエルサレムで語ることを許されなかった自分の証しを、奇しくも今こうして民衆に語っているのです。
「数奇な人生」と言いますと、一般的には、「巡り合わせの良くない不運な人生」という意味合いを持ちます。捕らえられたパウロ、自分の歩みの終りを予期させられるような危機的な状況、「不運」とも言える状況です。しかし、ここに立ちながら、パウロは、自分の伝道者としての歩みをすべて導かれた主の御業を見つめているのです。そして、だからこそ、パウロはこの「不運」な状況、数奇な人生においても、これが確かにキリストの死に結ばれ、また死に打ち克つ復活の命に通じている道であることを信じて闘っていくことができたのではないでしょうか。
今日の箇所で、主はパウロに「立ち上がれ」「急げ」「行け」と呼びかけました。アナニアが「何をためらっているのか」と告げた言葉もまた、彼を通して語る主の言葉と受け止められるでしょう。その言葉は、まるで羊飼いが羊を導く声に思えます。そして、「その方の声があなたにも聞こえるはずだ」、そうパウロは時を超えて、私たちにも証ししているようです。

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