札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■マリアのアドヴェント
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28節)。何の前触れもなしに告げられたこの知らせにマリアは戸惑い、「この挨拶は何のことかと考え込んだ」とあります。あまりにも一方的で、途方もない話。まるで自分には何の関わりもないような話。マリアは天使の言葉を遮るかのように一度は抵抗しました。「どうしてそんなことがありましょうか。私は男の人を知りませんのに」(34節)。当然の事です。まだ何も起きていないのです。これがイエスの母となるマリアの「アドヴェント」の日々の始まりでした。
なにゆえ「おめでとう」なのでしょうか。それは、「主があなたと共におられる」という事実のゆえです。それならば、この受胎告知の物語は、マリアだけの物語では決してなく、今日、わたしたちにも同じように告げられている恵みです。私たちは、葬りの礼拝の時でさえ、最後に「祝祷」を聴くのです。死と別れという深い悲しみと恐れの時さえ、「恐れるな、主イエス・キリストの恵みがとこしえにある」という祝福を告げられるのです。
■「既に」と「未だ」の共存
私たちの内に、神の約束の言葉は宿り、生きて鼓動しています。その言葉はまだ実現したわけではなく、なお未来のことでありながらも、既に始まっているのです。「球根の中には花が秘められ」「さなぎの中からいのち羽ばたく」「寒い冬の中、春は目覚める」(讃美歌575)。いずれも今はそれが目には見えないのです。それとは苦しく哀しい現実があるのです。しかし、それは既に始まっている、芽生えている。「既に」と「未だ」が共存しているのです。
世間の出来事に目を向ければ、心が暗く重くなることばかりです。人間の愚かで浅はかな企てが満ち溢れ、目を覆いたくなります。明るい未来を描きづらい、行き詰った現実を痛感させられるでしょう。まさにその暗さや失意の中に、主の訪れは告げられています。毎週、一本ずつ灯される礼拝堂のろうそくは「主の近さ」を示しています。私たちは、人の分別や計画ではなく、主なる神がその御心を成し遂げられるその日その時を信じて、主にあって忍耐し、なお目を覚まして待ち望むのです。
■お言葉通りこの身になりますように
「時を良く用いなさい」(エフェソ5:16)と聖書は教えます。それは「あなたは主の御心が何であるかを、どんな時も尋ね求めて生きよ」ということです。自分にとって今は良い時だとか、今は悪い時だとかいう評価に囚われ、それに振り回されるのではなく、「自分の分別に頼らず、常に主を信頼して歩む」(箴言3:5)こと。アルファからオメガへと至る神の御業の中で、今という時を見つめ、取り組んでいくのです。マリアが天使に「お言葉通りこの身になりますように」と応えたように。
「この身になりますように」とは、つまり、この私を御業のために用いて下さいという献身の言葉です。このことによって主イエスは誕生しました。そして十字架と復活の出来事へ続きました。マリアは何も知らなかったのです。我が子が十字架で死ぬという残酷な未来も、復活という恵みについても秘められたままです。しかし、主の言葉こそが実現するということをこの時信じて自らを明け渡していく、主の業のために用いて頂く、そこに主の恵みは見出されるのだということがここには示されています。
■一方的な御業
なぜマリアが選ばれたのか。その理由はマリアの側にはありません。彼女は自らを「主のはしため」と言いました。それは「無に等しい者」ということです。ただ神が彼女を省み、目を留めたという神様の一方的な恵みの業があるだけなのです。マリアの「処女懐胎」は、そういう生物学的な奇跡が起きたということではなく、神がマリアを顧み、目を留めて下さったこと、それがただ神の一方的な御業であるということです。それならば、私たちも同じです。ただ主が「わたしがあなたを選んだのだ」と見出して下さって、わたしという者が今日ここにいるのです。そして、今日、主が私たちを用いて現わそうとされる御業があるのです。今はそれが見えず、暗さ重さが覆っていても、それは始まっている。「お言葉通りこの身になりますように」、そう応えて待ち望むものとなりましょう。
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