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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■聞く耳
主イエスは、大勢の群衆を前に、種蒔きのたとえを語られました。その話は子どもから大人まで皆が分かるような話です。道端や石地や茨の土地に落ちた種はちゃんと育たない、実りを結ばない。しかし、人間というものは「分かっちゃいるけど身につかない」悩ましいものです。
主イエスは、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われました。一人一人に「あなたには聞こえるか」と問うのです。つまり、神のみ言葉を聞くあなたの耳(心の耳)は、どのような状態であるか、と。聞いてもすぐに忘れ去ってしまう耳であるか、頑なで受け入れられない耳であるか、様々な煩わしさに覆われてしまう耳であるか、それとも豊かな実りを結ぶ良い土地のような耳であるか、と。

■関係性の問題
御言葉を聞く耳、これは理解力・記憶力の問題ではなく関係性の問題です。私たちは、自分と何の関係もない相手の話、信頼していない相手の話には聞く耳を持たないでしょう。同じように、あなたにとって神とはいかなる方であるか(神にとってあなたは何者であるか)。そこに関係がなければ、本当の意味で聞くことにはなりません。いくら「神は愛である」「神があなたを良しとしてくださっている」といくら言葉で説明しても、それだけでは神の愛など無用の長物、事実「無根」でしかありません。しかし、自分が神によって限りなく愛されたということ、神にとって決して失われてはならない子として見出されているという事実が、自分の中に根付くならば、神のみ言葉は、自分が自分であるために不可欠な言葉となるのです。
わたしたちは、そのことが分かっており、そうありたいと願っているのに、どうしていつまでも聞く耳を持てないのか、どうして神の言葉が実らないのか。これは特定の誰かの問題ではなく、皆に共通しています。
イスラエルの民は、過越の出来事、海の奇跡、マナの奇跡など驚くべき神の恵みの導きを経験してきたのです。しかし、いつしかこのことに慣れて、「マナしか食べるものがない」「エジプトで奴隷をしていた時の方がましだった」と言い出す始末でした。今まさに神様に生かされていながら不満と不信を抱き続けました。そこには、神の言葉を受け付けない石地や茨や道端のような私たち自身の姿がありありと描かれています。

■この世に蒔かれた種としてのキリスト
主イエスこそ、この世界の心のかたくなさを知っておられた方でしょう。聞く耳のない現実、神を受け入れる余地のない現実をその身に味わい尽くされました。この世から憎まれ、拒絶され、十字架へと追いやられてしまう、そんな現実の中にやって来られたのです。実に、群衆を前に種蒔きたとえをされた主イエスご自身こそ、神によって道端や石地や茨のようなこの世に蒔かれた種なのです。
たとえ話の中で、種を蒔く人は、そこが良い土地かどうかを最初に調べ、石があれば取り除き、茨があれば根っこを取り除くという作業を行ってはいません。そうではなく、種を大いに蒔き散らすのです。つまり、神様はどういう人か区別なく、もったいぶらず、おおいに種を播かれる方であるということです。「お前は頑なだから」「お前は心騒がしいから」「お前は聞いてもすぐ忘れるから」といって、のけ者にはしません。すべての人に種を蒔かれる。イエス・キリストはそのことの証しです。

■良い土地とされて
いま病気や体の衰えやコロナや様々な事情によって教会に集えない方々が多くおられます。教会には財政の課題もあります。あるいは人間関係のすれ違い、歪みなども表れています。これらの状況が私たちの心を一層騒がしく、頑なにさせるかもしれません。しかし、主は、「どうせ何も実らないだろう」「意味がないから、勿体ないからやめようか」と思いながら語ってはおられません。このような私を喜び、尊び、関係してくださっている。何度も何度も言葉を与えて下さる。礼拝に集まるこのひと時だけではなく、生活の真っただ中で。主のみ言葉は、即ち主ご自身はあなたのごく近くにあるのです(申命記30:14)。主は御言葉をもってご自身を現わされます(サムエル記上3:21)。
良い土地とは、石や茨が一つもないということでしょうか。いいえ、神がこうして関係して下さっているという事実です。私たちが努めて良い土地になるのではありません。神様がわたしたちを良い土地として喜びながら福音の種を蒔いて下さるのです。「草かんむりに時」と書いて「蒔」。芽生えるに「時」、実を結ぶに「時」があるのです。神の言葉がその人の中で芽生える時があるのです。私たちがいくらせっかちに答えを求めても分からない。今は何の気配もない、意味を感じない。けれども、思いがけないところで、駄目だと思っているところで私たちを生かし、立ちあがらせる、そんな主の言葉が、私たちの中に働いています。
私たちは今日、この恵みの知らせを聞く耳を与えられているのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」。

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