札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
>札幌北光教会/トップ >牧師紹介・説教 >神の恵みの下に生き続けよ
■到底信じられないこと
「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」(38節)。ここにはいわゆる「信仰義認」が語られています。人は如何にして神の御心に適い、その祝福に生きることができるのか。それは律法を必死に守り、一つも間違いを犯さないという生き方によるのではないのです。神は間違いを犯さない人間だけを良しされる方ではなく、ただ、イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、人の罪を完全に赦し、キリストの復活の命と一つに結び合わせることによって、ご自身の前に生きる者としてくださったのです。人間の真実さや正しさではなく、ただ神の真実さがわたしたちを生かすのです。この恵みを信じ受け止める時、その人は神に愛された者としての自分を生きることができるのです。しかも、ユダヤ人も異邦人も区別なく「信じる者、皆」に与えられた福音なのです。
パウロは、このことは「人が詳しく説明しても、到底信じられない事」(41節)と言います。人が言葉を駆使して説明したからといって、神の愛を赦しを信じさせられるものではありません。むしろ、多くの人は、そのような話を聞いても、愚かで無価値なものとしか思えないでしょう。世の知恵では決してとらえることのできない、それこそ聖霊の働きによらずして分からない御業ということです。
パウロは、会堂長から、会衆への励ましを語るように求められたわけですが(15節)、人間的な、この世的な励ましや慰めを語るのではなく、すべてのものの命の根源であり、すべてのもとを捉え導く神からくるまことの励まし、人間が生きていくために本当に必要な慰めを語ったのです。これが、自分にとって「福音」として深く聞かれ味わわれるのは、ただ神の働きによるのです。
■わたしは異邦人の方へ行く
パウロは、「神の恵みの下に生き続けるように」と勧めました(43節)。「律法の下に生き続けよ」ではなく、「神の恵みの下に」なのです。あなたたちは、いまや律法の下ではなく、恵みの下にあるのだ、と(ローマ6:14)。自分の正しさ・誠実さを主張するのではなく、神がキリストのゆえにあなたをそのままに「良し」、「わたしの目にあなたは尊い」と言って下さる、この恵みを遠慮せずそのままに感謝して頂いたらよいのだ、そして、互いにこれを喜びとして分かち合えば良いのだと。
しかし、翌週の安息日、町中の人々がパウロの話を聞いている最中に、ユダヤ人たちはパウロに反対してきたというのです。それは単なる“いちゃもん”ではなく、命の危険さえあったのです。事実ユダヤ人たちは、この後、町の人々を扇動してパウロとバルナバを迫害したのでした。
パウロの告げる福音を拒絶した、神の恵みを拒絶しました。「自分たちは選ばれた神の民であって、イエスによって罪を赦してもらう謂れなどない」と思ったことでしょう。パウロはその態度に、かつて迫害者であった頃の自分自身を見つめる思いがしたことでしょう。そして、この時、パウロの中で、これから自分の歩むべき方向が定まりました。「わたしたちは異邦人の方へ行く」(46節)。ユダヤ人による拒絶は、パウロに「自分は異邦人のための使徒として召されたのだ」「神の恵みは、すべての者に分け隔てなく、地の果てまでも及ぶのだ」という確信をもたらしました。
■神の恵みの下に生き続けよ
パウロは、異邦人伝道へと、外に向かっていきました。それは、頑ななユダヤ人を見限り、見放した行動というのではなく、彼らに対し、異邦人もまた神に愛されたあなたがたの隣人なのだと、隣人の存在を、神の愛の広さを指し示す行動であると言えるでしょう。
現在、イスラエルがパレスティナに対し行っている殺戮。ユダヤ人には、かつての筆舌に尽くしがたい迫害の記憶があります。その悲惨が二度と繰り返されないために、自分たちを守るために、今度は自分たちが力を選び取り、徹底して排他的、独善的に振舞う側に立って脅威をもたらしています。なんという皮肉。なんという人間の哀しさ。己の正義に囚われ、二元論の罠にはまり、癒しがたい分断がもたらされています。
パウロは言いました。「あなたがたは、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている」(46節)。隣人を拒み、神の隔てのない愛を拒み、自分の正義、自分の命、自分の平和に留まろうとするその在り方それこそは、神の目に尊いあなた自身を、自ら無価値なものに貶めるに等しい過ちではないのか、そんな問い掛けに聞こえてきます。
「神の恵みの下に生き続けよ」。これは自分の内に働く自己保身、独善性、利己性から解き放たれて、神の恵みの下で、隣人の存在を見つめ続けていこうとする不断の努力を求める言葉です。今、この場所から出かけていく、わたしたちにも告げられています。
⇒ 前のページに戻る