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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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権威ある驚くべき教え
ユダヤ教の安息日に会堂で、人々は主イエスが「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」ことに驚きました。すなわち、それが人間の解釈による教えではなく、神ご自身から迫り来る力ある言葉であったということです。その人の全存在を知り、愛し、赦し、祝福する神の真実がそこに満ち溢れていたのです。人々は他人事のようにではなく、まさしくこのわたしに告げられている福音と受け止めたからこそ非常に驚いたのです。

構わないでくれ―関係の拒絶
その時、汚れた霊が言いました。「ナザレのイエス、構わないでくれ」(24節)。これは「我々に関わるな」「我々とお前とは何も関係がない」と関係を拒絶する態度です。「汚れた霊」とは、神との関係の拒絶、神からの孤絶にその人を陥れる力だということです。汚れた霊は人を神から引き離し、孤絶の闇へその人を閉ざします。「お前は、その存在そのものが忘れられている。お前の生きること、死ぬこと、すべては無意味で無価値である」「神はお前などに構ってはくれない」と。しかし、主イエスは、無関係を決め込む汚れた霊に取りつかれた人に関係していきます。「あなたもまた愛された神の子であるのだと」と。この福音に対して、汚れた霊は抵抗する術をもたず、大声をあげて出て行きました。

ナザレのイエス
汚れた霊の「ナザレのイエス」との言葉に、主イエスのことが良く言い表されています。神は「ナザレ村のイエス」というわたしたちと等身大の人として、傍観者としてではなく当事者として、人々の命の現場に来られた方なのです。「インマヌエル」(神は我々と共におられる)」という言葉は、決して空虚な美辞麗句ではありません。神は沼のように救いがたい世の罪の只中に人として生き、罪と死の闇に座す人々を神の祝福へと招かれるのです。「あなたもまた失われてはならない神の子なのだ」と。それは人々が忘れかけていた、あるいは全く喪失していしまっていたアイデンティティを取り戻していく神の福音の闘いです。主イエスは、人々が全く閉ざされ聞こえなくなっていた「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(1:11)との天の声を届けるために、いや、この天の声(神の言葉)そのものとして関わって来られるのです。

再びの感染拡大に際して
いま、わたしたちは教会での互いの交わりを絶たれています。それは感染のリスクを回避するため、やがて教会に皆元気で集まるため、という目的によるものでありながらも、しかし、まさにその中で「汚れた霊」は暗躍し、「わたしにはもう関係がない」という思いに囚われそうになる時があるかもしれません。しかし、まさにそこに主イエスは関係してこられる。あなたを神の子として慈しむ福音が、いかなる力の妨げをも超えて迫り関わって来られるということを互いに覚え、祈りと業をもって励まし合いたいと思います。

福音がものを言う
さて、カファルナウムの町に夜がやってきました。安息日が終わったのです。すると人々はその時を待ちかねていたかのように続々と病人や悪霊に取りつかれた者を(おそらく家族や友人であったのでしょう)主イエスのもとに連れてきました。その時、主イエスは「悪霊にものをいうことをお許しにならなかった」(34節)。神が人々の命の現実に愛をもって関わろうと迫られるところに、悪霊が入り込んで関係を断絶する余地はありませんでした。悪霊がものをいうのではなく、福音こそがものをいうのです。
ちなみにルカによる福音書の並行箇所には「イエスはその一人ひとりに手を置いていやされた」(ルカ4:40)とあります。主イエスが一人ひとりに手を置かれた、すなわち、福音は決して不特定多数にではなく、個別具体的な命の現実の中に訪れるのです。おそらく夜を徹してだったのでしょう。主イエスは一人ひとりの現実に夜通し手を置き続けて下さった。神は、そのようにして、わたしたちの人生の闇の中で、希望の朝を迎えるその時まで、ずっと手を置いていて下さるのです。福音は、その闇の中に、苦しみと痛みの中にもう訪れているのです。

駆け巡る福音
「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」(38節)。主イエスに従った4人の漁師らは、「人間をとる漁師にしよう」(1:17)と告げられたことを思い起こしたことでしょう。福音の網は決して小さくない、決して破れないということを、その網が人々を包み込んでいく働きに、この自分が招かれ必要とされていることを知ったでしょう。主イエスはカファルナウムを出て駆け巡られます。福音は「教会」という場所だけに留まりません。その網は思いがけず及んでいくのです。今、わたしたちが散らされながらも、この聖書のみ言葉を分かち合っていることを思う時、それぞれが生かされ、遣わされたその時と場こそが、駆け巡る福音の現場なのだということを覚えたいと思います。いまは、集まれないことを嘆き、辛抱する時ではありません。まして「わたしには何の関係もない」と言う時ではありません。いまは悪霊がものをいう時ではなく、福音こそがものをいう時です。「わたしについて来なさい」、そう招かれる主イエスに従っていきましょう。

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