札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
>札幌北光教会/トップ >牧師紹介・説教 >待ち人来たる
■洗礼者ヨハネ
主の到来を人々に告げ知らせた洗礼者ヨハネ、彼自身も主を待ち望んでいた一人でした。ヨハネは、死海の東側にある要塞に幽閉されていました。ある日、ヨハネは、イエスについての話を聞き、自分の弟子たちを送って尋ねさせました。「来るべき方は、あなたでしょうか。それともほかの方を待たなければなりませんか」と。ヨハネこそ誰よりも強く救い主を待ち望んでいたのです。「待ち人来りたもう」その確信を得たいヨハネの心情が表れています。
主イエスはヨハネにこう伝えました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」。このことを聞いたヨハネはどのような心境だったでしょう。牢の外では、キリストの業が繰り広げられている、闇の中を歩む民、死の陰に住む者に光が照り亘るような光景が繰り広げられている、今まで排除され、踏みにじられて生きていた貧しい人、病める人、死の絶望にある人々が、キリストによって生きる希望を見出している、命の喜びを見出している。そのことを知った時、ヨハネは自分の役目が終わったのだということを悟ったのかもしれません。
■ヨハネよりも偉大な者
「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。」主イエスは、このようにヨハネの功績を賞賛しつつも、「しかし、天の国で最も小さなものでも、彼よりは偉大である」と言われました。ヨハネより偉大な、「天の国の最も小さな者」とは誰のことでしょうか。それは、ここで主イエスの話を聞いている群衆一人ひとりのことであり、今日これを聴いている皆さん一人ひとりのことです。群衆の中には、「お前など天の国から最もかけ離れている」と蔑まれていた者、誰からも顧みられずにいた人々もいたでしょう。その彼らこそここで「天の国の民」として高められているのです。「神の目にあなたたちが、いかに高価で貴い存在であるか。その尊さは、この世の如何なる誉れにも勝るものだ」というのです。そのことの見える証しこそイエス・キリストです。主イエスが飼い葉桶に生まれ、徴税人や罪人と呼ばれる人々と食事をし、十字架で死なれ、しかし三日目に甦られたこと、その一つひとつに決定的な恵が現わされているのです。神があなたと共にあり、あなたを限りなく尊び、そして死にも打ち勝つ愛でとらえておられる。これこそ誰にも奪い取られることのない、何ものにも勝る誉れです。
■天国の争奪
「天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」(12節)この世では、いわば天国の争奪戦が激しく繰り広げられているのです。自分こそ天の国に相応しいものであり、自分こそ神の祝福に与るに相応しいものであるといって、まるで神を自分に引き寄せ、天の国を我が物にし、他者を裁き、排除している。今まさに世界で繰り広げられている様相と重なるのではないでしょうか。16節で主イエスは、今この時代は「広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子どもたちに似ている」「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに悲しんでくれなかった」と言いました。笛吹けど踊らず、誰も悲しみを共にしようとしてくれない、皆の愛が冷め、共感する心を失い、利己的な道ばかりを追い求める。人と人が喜びや悲しみを分けあう場であるはずの広場が、ただ人が通り過ぎていくだけの荒れ果てた地と化している、それが今の時代だというのです。
しかし、そのような時代・世に、イエスという方は思いがけず突入して来られ、人々が我が物にしていた天の国を、奪い返した、取り戻してまことに相応しいものたちに開いたのです。イエスが徴税人や罪人たちと共に食卓を囲めば、人々は「見ろ、あいつは大食漢で大酒飲みだ」「まともじゃない」と批判し、イエスにつまずきました。けれども、徴税人も罪人も、一人ひとりが、誰しもが、神によってその存在を無条件に肯定され、祝福されている、その喜びが互いに分かち合われる食卓の交わりにこそまことの命の喜びがある、この世的な偉大さなど比較にならないような誉れがあるのです。主イエスの到来は、そのような神の国の始まりを告げました。一見それとは程遠いような現実の中でも、それは始まっている、そして、やがて完成するのです。
■待ち人来る
わたしたちは、その神の国を待ち望みつつ、まるでそれを先取りするようにして、ここで互いを祝し、互いに仕え、共に喜び、共に悲しむものとして集められ、教会を形作っているのだとうことを改めて自覚したいと思います。「待ち人来る」と題しました。この教会を訪れる一人ひとりが私たちにとっての待ち人でしょう。そこに主イエスご自身の訪れを見つめるようにして受け入れあいたいと願います。また、ここから遣わされていく私たち自身が、誰かにとっての「待ち人」なのかもしれないという気づきをもって接していくものでありたい。そうして、主イエスが備えて下さっている神の国の喜びを分かち合っていきたいと願います。
⇒ 前のページに戻る