札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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今年も北光幼稚園でのクリスマス礼拝を無事に終えることができました。先生方は、子どもたちの力を信じ、ページェントで演じる一人一役を任せます。任せるということは、結果はどうあれ、自分の思い描いていたものと違っても、それを受け入れる柔軟さ、懐の深さがなくてはなりません。さらに大切なのが、大丈夫!と言って、励まし、子どもの力を信じ、それぞれの役割を任せ、寄り添って一緒に頑張ってくれる、先生や仲間の存在です。
子どもたちのそういった場面を見ると、大人も一緒だと思います。思いがけないことに出会い、難しい人間関係に悩み、家族のこと、仕事のこと、さまざまな課題に心が折れそうになることがあります。そういうときに、「大丈夫」という励ましはどれほど力になることでしょう。
今年も色々あった私たちは、その「大丈夫」を、もうすぐやってくるクリスマスのときに聞くことができます。一年、いろいろあったけど、今年もクリスマスがやってくる。私たち人間が、もう、限界だ、と思いそうになったことをすべて受け入れ、良いものに変えてくださって、あとは、私が引き受けよう、と主イエスがここに生まれてくださった、これがクリスマスです。
子どもの力を信じて任せる話をしましたが、神様は、とんでもなく大切な役割を私たち人間に任せてくださいました。私たちと同じように普通の人、マリアやヨセフに神様の大事な独り子、救い主イエスを託された、このことは、クリスマスの出来事における最も驚くべき事柄です。なぜそんな不確かなものに委ねられたのでしょうか。それはただただ、神様の憐れみによって、です。神様のご計画というのは、本当に私たちには計り知れないものであり、そして、それはとても愛深いもの。神様の私たちを愛し憐れむがゆえに、そのことを現わすために一番良い方法として私たち人間に託されたご計画でした。
天使からお告げを受けたマリアは、すぐに親類のエリサベトを訪ねます。エリサベトのいるユダの町は、マリアのいたナザレから3,4日かかる場所でした。10代の女の子が一人でそこへ向かったと思うと、その知らせがどれほど大きな衝撃であったかと思います。たくさんの不安を抱え、早くにこの気持ちを聞いてもらいたい、とそんな気持ちを抱えながらエリサベトの元へとやってきたことでしょう。 ようやく出会えたエリサベトは、老齢ながら男の子を身ごもって6か月となっていました。誰にも信じてもらえないような出来事を、エリサベトは深く受け止め、マリアの気持ちを理解したことでしょう。それぞれ母になる者同士、不安やまた希望を分かち合い、互いに神さまの業の内にいることを確かめ合うことができたのです。
そのとき、マリアの口から出たものは、神様への賛美の歌でした。「マリアの賛歌」です。
この「マリアの賛歌」の中で、強調されていることは「神さまの憐れみ」です。神様の「憐れみ」というのは、一番弱いところに、一番貧しいところに、一番傷ついているところに、特別にいつくしみを示す、ということです。このマリアの賛歌は、一人では決して歌われることはなかったでしょう。エリサベトとの交わりの中で、理解し、理解される中で、マリアの不安は神様の憐れみによってすべてが整えられるとの確信の中で生まれた歌です。神様の憐れみは、本当に深いと思います。マリアにポンと無理難題を押し付けたのではない。マリアがこの大きな神様から託されたことを受け入れることができるように、エリサベトという存在を与えてくださった。独りでは到底超えられないことも、同じように共感し、共に喜び、励まし合える者を置いてくださっているのです。このマリアとエリサベトの交わりの姿は、教会の姿を現しているように思えます。
二人は単に親戚として、ただ同じような悩みを抱えた者同士、相談をするために出会ったわけではありません。二人は互いに神様の憐れみによって神様の約束を宿した者同士として出会っているのです。そうであるならば、私たちも同じです。私たちも互いに血が繋がっていなくとも、神様の憐れみによって神様から愛され、慈しまれている者として、教会に集められているのです。
神様の憐れみによって、私たちの思いや限界を「大丈夫だ」と言って引き受けてくださる救い主が生まれるクリスマス。私たちは、目の前に広がる現実にひるみそうになります。諦めそうになります。もう、これは無理だ、という状況に陥ることもあります。しかし、神は憐れみ深く、おっしゃったことは必ず実現する、そのことを信じ、教会に集う一人ひとり、お互いに喜びあって、共に賛美をささげ、クリスマスを迎えたいと思います。
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