札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
>札幌北光教会/トップ >牧師紹介・説教 >人生後ろ向きで何が悪い
この歳になって思わされることは、振り返ることのできるものがある、ということは大きな恵みであり、祝福であり、我が人生を支えてくれる力でもある、ということだ。私もかれこれ30年牧師をやって来たが、幸いなことに振り返ることのできる恵みが幾つかある。
例えば、神学校を出て最初に赴任した教会は神奈川県川崎市の戸手伝道所だったが、実はそこは私の母教会であり、信徒として、神学生として、そして伝道師として長くお世話になった教会だ。そして神学生の最終学年、4年生の時に主任牧師の大倉一郎先生がカナダに3年間留学することになり、「この3年間どうするんだ」という話となった。私が通っていた神学校は日本聖書神学校という夜学の神学校で昼間はバイトをしていた。それで「秋山くんはまだ神学生で、牧師じゃないけど、牧師みたいなことをやってもらっていいんじゃないですか」という非常に安易な話が出て、それで「宣教主事」という役職名を作っていただき、神学校4年生の時から私は牧師ではないけれども牧師の仕事をすることになった(後にこれが置戸教会の宣教主事体制につながって行く)。
私の北見・置戸時代にも、振り返りたい恵みがある。その一つは、年頭修養会を道東地区で引き受けた時のことだ。その時のテーマは「小さき群れの苦悩と希望と」。講師は農村伝道神学校で長く教鞭をとっておられた星野正興先生だ。星野先生は素晴らしい講演をしてくださった。また地方教会・小規模教会・過疎地教会からの現場の声、現場の発題もあった。 そして、当初意図していなかったことだが、あの年修が一つのきっかけとなって翌年、北海教区に小規模教会協議会が設置され、教区として地方教会・小規模教会に関する取り組みが始まって行った。また、後宮敬爾先生のリーダーシップにより、四教会(札幌北光、置戸、北見望ヶ丘、琴似中央通)の宣教協力体制も作られた。本当に感謝なことだ。
私の北見・置戸時代にいただいた恵みがもう一つある。それは、それは当時信徒であった荒谷陽子さんに関することだ。当時、置戸教会が無牧師教会となることが決まり、これから置戸教会はどうなってしまうのか、ということになった。あの時は、本当にどん詰まりだった。信徒も、役員も、牧師も、そして地区、教区も置戸教会を閉じることを覚悟していた。
そんな時、今でも鮮明に覚えているのだが、北見と置戸の役員が集まって結論の出ない協議を終えた後のことだった。荒谷さんが「先生、ちょっとお話しがあります」と言うのだ。私は経験上、信徒が真面目な顔で「先生、お話しがあります」という時には、いい話ではないことを知っている。私は「また、何かやらかしてしまったか」と思ったが、その時に出た話が例の話だ。「私は信徒伝道者はできないが信徒奉仕者であるならば、つまり自分が置戸教会に住み込んで、週報を作ったり、礼拝の準備をしたり、時には信徒奨励をしたり、そんな形で置戸教会を支えることはできないでしょうか」……このような話をいただいたのだ。これはもう、願ってもない申し出だった。そして、北見と置戸の役員会は、この荒谷さんの申し出をありがたくお受けし、それを実現させるための組織作り〜宣教主事体制作りが始まって行った。
ところで、なぜ荒谷さんがあの時手を上げてくれたのか、ということを考えることがある。それはもちろん、彼女が置戸教会を何とか存続させたい、そのお手伝いをしたいという強い思いがあったことは事実だろう。しかし、私はその決定的な要因は違うところにあると思う。それは、荒谷さんが信徒主導のメノナイトの文化・伝統に育って来られたところにあると思う。
また、荒谷さんが牧師となった理由は何か。それは、言葉にしてしまえば月並みな言葉となるが私は「愛」だと思っている。彼女は置戸の町を、また置戸教会を愛しているのだ。好きという言葉は薄っぺらだ。好き嫌いを超えて、彼女は置戸の町を愛し、置戸教会を愛している。だから、牧師となったと私は思っている。
では、なぜ愛するようになったのか。その答えは、彼女が置戸の町と、置戸教会を選んだのではなく、事の真相は逆であって、置戸の町と置戸教会が荒谷陽子さんを選んだからだ。そして、その選びに対して、荒谷陽子さんは愛をもって応えた。それで、牧師となったのだ。だから、神による招きと、その招きに対する愛に基づく応答……これが、荒谷陽子さんが牧師となった本当の理由だと、私は思っている。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)とある通りだ。
以上は、私の「個人の感想」です。今度、機会があったら、ご本人に事の真相を聞いてみたいと思っている。しかし荒谷さんのことだ。彼女はきっと「Aという牧師があまりにしつこく、私は根負けしたのです」と言うだろうなあ。
⇒ 前のページに戻る