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イエス様は、神さまから与えられている救いを、たとえばなしによって人々に伝えています。たとえばなしの題材には人々の日常風景が使われています。たとえに登場する身近な情景に自分自身を重ねることで、イエス様の語る内容を、自分自身のこととして、聞くのです。たとえばなしの中に自分が登場しているという意識が芽生え、さらには、救いの物語の中に自分が存在しているのだ、神さまはこのわたしをも救おうと心に留めてくださっているのだ、という信仰の過程がふまれます。

さて、イエス様が今回のたとえばなしを語った相手というのは、当時の権力者たちでした。宗教的指導者の祭司長、エリート集団の律法学者、政治的指導者の長老、このような人たちにイエス様はたとえで話しました。このたとえばなしでは、ぶどう園の主人が収穫物を取り立てようと奴隷を何人か遣わしますが、全員が暴行を受けたり殺されたりしました。主人は、彼等が収穫物を渡そうと思い直すことを期待して、愛する一人息子を遣わします。しかし、農夫たちは主人の財産を自分のものにしようとして、この息子を殺してしまいます。

ここまで、たとえを話したイエス様は、祭司長・律法学者・長老たちに問いかけます。「このぶどう園の主人はどうするだろうか(9節)」と。律法に従えば、「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる(出エジプト記21章12節以下)」とあります。イエス様に質問された彼等は、きっと揃って「ぶどう園の主人は農夫たちに同じ目に遭わせる」と思ったでしょう。そしてイエス様は、その通り、主人は農夫たちの命を奪うはずだと、言います。

ぶどう園の主人や農夫たちというのは、人間の醜い一面が現れているのだと思います。人間にはだれしも、他者のために優しさや慈しみをもつ部分もあれば、自分だけを大事にしすぎて他者を傷つけたり貶めたりする部分もあります。自分の利益のみを追い求めるぶどう園の主人、富を得るためならば他人の財産を奪い、人を痛めつけることまでする農夫たち。彼等は結局、それぞれに大切なものを失ってしまいました。それでは、登場人物のだれひとり救われていない、このたとえばなしにおいて、どこに救いが語られているというのでしょうか。

イエス様は、一通りたとえを話し終えて、詩編の言葉を引用します(118:22〜23)。これによって、たとえ話のもうひとつの読み方が現れてきます。祭司長・律法学者・長老は、このたとえばなしに自分たちが登場していることに気付きました。さらに、イエス様はだれを登場人物に想定していたのかが明らかになります。ぶどう園の主人=神さま、ぶどう園=イスラエルの民、農夫=指導者(祭司長・律法学者・長老)、遣わされる奴隷=歴代の預言者、愛する一人息子=イエス様。

神さまにイスラエルの民を委託された指導者たちがいました。そして神さまが預言者を遣わして悔い改めを求めますが、指導者たちは耳を傾けませんでした。ついに神さまは、独り子イエス様を指導者たちへ遣わしました。彼等は、イエス様を殺そうとします。

先程のたとえばなしでは、ぶどう園の主人は、律法や怨恨に従って息子の命の償いに、農夫たちを殺しました。では、主人に当てはめた神さまは、その通りにするでしょうか。イエス様は、十字架刑に処せられ、殺されます。愛する独り子イエス様を殺された神さまは、復讐として指導者たちの命を奪ったでしょうか。そうではなく、むしろイエスさまを殺した彼等を赦し、新しい生き方へと導く命を与えたのではなかったでしょうか。

このたとえばなしは、人間の物事の考え方だけならば後味の悪い結末になります。しかし、神さまが介入するとき、この物語は結末を迎えるどころか、新しい始まりを告げ知らせます。神様は自ら進んでイエス様の命を差し出しました。自分だけを大切にしてしまう人間に。自分の主義主張ばかり押し通そうとする人間に。それらの果てに大切なものを失ってしまう、愚かな人間に。神さまは、愛する独り子イエス様の命を、わたしたちに与えてくださいました。

詩編の引用のように、殺されたイエス様は、復活によって救い主という重要な役割を果たしました。イエス様を殺す彼等は復活によって赦される者たちになります。彼等も神さまから愛され、赦される存在であり、イエス様の復活の恵みに共にあずかる者として神さまに招かれているのです。

わたしたち一人ひとりには、他者を傷つけてしまう、どうしようもない一面をもっています。しかし、神さまは別の生き方の可能性を示しています。イエス様の十字架と復活による、新しい命をもって歩み出す生き方です。わたしたちは常に、人を愛し抜けない自分と、イエス様の命を差し出すほどに愛してくださっている神さまとの間で生きています。だれかを苦しませるとき、そこにイエス様が共に苦しんでいます。そして、自分の過ちに気が付くのです。隣り人を愛するにはどう生きれば良いか、そこから変えられていくのです。Apicabo. Orro

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