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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■今日、置かれるイエスの手
彼女が病に苦悩してきたのは18年間。「約20年」という大雑把な表現ではありません。ここに主イエスが彼女の苦しみをまさしくご自分のものとして受け止めて下さっている愛があるように思います。そして、これは福音として今日、私たちに語られている話です。主は今日、この福音書の言葉を通して、私たちの上にもその手を置かれるのです。
この日は、ユダヤ教の安息日でした。皆が働く手を休めて天地創造の神を礼拝する日です。皆、神を礼拝するためにユダヤ教の会堂に集まっていたのです。決して働いてはならない日、病を癒すという治療行為も行ってはならない。だからイエスが病人を癒した行為は、それがいくら奇跡的な業であろうと、会堂長は腹を立てました。しかし、主イエスにとって、この女性の苦しみは見過ごされてはならないものでした。安息日だからこそ、彼女の心と体は癒され解放されなければならなったのでした。詩編には「主を讃美するために人間は造られた」とあります(102:19)。彼女が心からの賛美を造り主である神に捧げられるということは、安息日に最もふさわしいこと。それが禁止される律法は、本来の精神から逸脱してしまっているのです。イエスは、そうして律法をあえて破っていきました。当然、反対者の恨みを買い、ついに十字架の上に張りつけられました。人々の上に置かれた主イエスの手には、釘が打ち込まれたのでした。しかし、主の手は、もう二度と手を置くことができなくなったのではありません。主イエスの復活は、誰も何も主イエスのその慰め、励まし、祝福の手を妨げることはできないということを示しています。
洗礼時に置かれる手は、イエス・キリストの手。洗礼は、そうしてキリストが共に生きて下さっていることの証し、そしてまた自分もこの方と共に生きていこうとする決意の証しです。あるいはまた洗礼を受けるということは、「イエスを身にまとう」ことです。アダムとエバは自分たちが裸であることを知っていちじくの葉で身を覆いました。それは、自分たちが丸裸、つまり何一つ持っていない存在であることを知ったということです。神は、その二人に動物の皮で作った衣を着せました。ここにわたしたち自身のことを見つめるのです。何かを持っているようで実は何も持っていないわたし、裸で生まれ裸で死んでいくわたし。その私に、ただ一つ与えられ、わたしを丸ごと包むイエス・キリストという衣があります。そうして、わたしがキリストの死と復活の命を身にまとっているということ、キリストに示された神の愛をまとっているということ、それは目には見えない、だからこそ誰も奪い取ることのできない事実です。洗礼は、この事実を信じ生きていくということです。

■信仰と行い
さて、主イエスは腹を立てた会堂長に言いました。「偽善者たちよ(中略)安息日であっても、解放してやるべきではなかったか。」この聖書箇所の主題は信仰と行いです。ヤコブの手紙には「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」「行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい」とあります。もし「自分は神に愛されている」というならば、神に愛された者としての生き方へと踏み出すようにと求められているでしょう。「自分は神に導かれている」と信じるならば、神はあなたをどこに導こうとされるのかを考えるよう求められています。神は、自己満足の世界ではなく、キリストの道へと導かれるのです。キリストと私と共にいてくださる、インマヌエル(主我らと共にあり)というならば、キリストと共に歩むように求められています。

■もう一つの解放
反対者たちは「恥じ入った」のでした。このことは彼らの生き方が変革されていくために必要な感情だったと私は積極的に読み取りました。
私たちならどうでしょう。自分の非を認めず頑なになり開き直ってみせる、問題をすり替えてみせる、あるいは命を注いで語られた主の言葉に耳を塞ぎ、あるいは忘れ去る自分であることを「仕方ない」のひと言で済ましてしまう、恥じ入るどころか自らを誇り高ぶって生きてしまう、そんな有様の方がはるかに多いのではないでしょうか。その意味において、私たちこそ信仰の足腰が重く、曲がってしまっているのではないでしょうか。反対者たちは自分たちのあり方を痛く恥じ入った。そこから彼らが変えられていったとするならば、そこにもまた主イエスによって「解放」された人の姿があると言えるでしょう。ぜひ、そこに私たち自身を見出したいと思います。
アダムとエバは、自分たちが何も持たない裸の存在であることを恥じました。私たちも、自分は何もできないこと、何も持っていないこと、何もしてこなかったこと、そうして自らの在り様に恥じ入ることがあるとするならば、そこでこそ神が与えて下さったキリストをまとわせて頂いているのだという恵みを思い起こしたいと思います。このような私をそれでも、神がわが子、わが似姿として愛し、導き用いてくださろうとしている自分であることを知って明け渡しましょう。そうして主によってまことに解放された者として、ここで主を讃美したいと思うのです。

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