札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■第二の聖霊降臨
ペトロはある時、奇妙な幻を見ました。天から四隅で吊るされた布が降りて来、その中には律法で食することの禁じられた数々の生き物が入っていたのです。目を疑うような光景ですが、しかも天の声は「これ屠って食べよ」「神が清めた物を、清くないなどとあなたは言ってはならない」とペトロに命じたのです。
ペトロがこの不可解な幻の意味を考えていたところ、カイサリアからやって来た3名の人が現れ、ペトロは聖霊に命じられるままその人たちについて行き、その後ローマ人の百人隊長コルネリウスとその家族・友人たちに出会うに至りました。
ペトロは、そこで自分が見た奇病な幻の意味を悟りました。すなわち、あの天からつるされてきた忌むべき動物は、「異邦人」を意味していたということを。自分たちが汚れた者と見なし遠ざけ、関係を拒絶し続けてきた異邦人を、しかし神は分け隔てず、キリストにおいてご自身の愛すべき子としてくださるのだということを。こうして、ペトロが彼らにキリストについての福音を伝えたところ、異邦人である彼らの上に聖霊が注がれたのでした。ペトロは、あの五旬祭の日、ユダヤ人である自分たちが体験したのと同じ様な光景を、今度は異邦人たちの中で目撃することになったのです。
聖霊はユダヤ人である自分たちだけでなく、異邦人である彼らにも注がれる。この事実を12使徒の筆頭でありエルサレム教会の中心人物であったペトロが直接体験したという点で決定的な出来事であったことをこの箇所は物語っていることでしょう。人間がいくらためらいを覚えようとも、神は何一つためらうことなく、何ら分け隔てなく彼らをも等しく愛しておられるということが明らかにされたのです。
■unlearn
北光幼稚園で職員のための園内研修会が行われました。ハラスメントに関する研修会でした。講師のお話しの中で「常識とは 18 歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない」(アインシュタイン)ということ、本来、相対的なものでしかないはずの自らの認識に固執して、それを相手に押し付けたり、分け隔てたり、巻き込んだりするということ、人は繰り返し、「un-learn(アンラーン)」すること、つまり、それまで積み重ねてきた経験や思考の枠を捨てて、再び学び直すという作業が必要だ、ということをお話しくださいました。新しいぶどう酒は、古い革袋ではなく新しい革袋に入れよ、という教えに通じるものがあります。主イエスの歩みは、時に律法学者との激しい闘いでもありました。それは戒律と伝統づくめの社会に満ちたハラスメントとの対決であったと言えば言い過ぎでしょうか。
エルサレムにいたユダヤ人キリスト者たちは、初めこそペトロが異邦人のところへ行き一緒に食事をしたことを非難していましたが、ペトロの話を聞いて静まりかえり、そして神を賛美して言ったのです。「神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えて下さった」。それまでは、ユダヤ人から見れば、異邦人など亡きに等しかった、存在しないに等しかった。しかし、神は、異邦人である彼らをも自分たちと同じく神の子としての命に生かしておられるのだという事実を認識したのです。この物語は、決して、異邦人の悔い改め・回心だけが語られているのではなく、ペトロをはじめエルサレムのユダヤ人キリスト者たちの側の回心・変革・根本的なunlearnの物語でもあるのです。
わたしたちは普段、幻を見たり、主の天使を見たりするわけではないかもしれません。しかし、確かに主の導きの中で私たちは互いに出会わされている、ここに集められている、それが教会であるということを意識したいと思うのです。この出会いの中で、主は互いを祝福し、そして互いをキリストにあって新しく作り出そうとしておられます。
札幌北光教会の聖餐式は、聖餐台を覆っている白い大きな布の四隅を持って取り外すところから始まります。ペトロが見たあの幻みたいです。その布は、神がイエス・キリストにおいて誰をも分け隔てなくその恵みに招いて下さっているということの証しです。そして主は今ここで私たちにも言われるのです。「屠って食べなさい」。キリストこそ屠られた犠牲の小羊でありました。その命に私たちは共に与ります。ここに神のすべてのものへの完全な愛がある、赦しがある、その恵みを信じる者としてこの食卓を囲むのです。そして、キリストのゆえに互いを受け入れあい、仕えあうものへと変えられていくのです。
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