札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■わたしについて来なさい
漁師たちは、網・船・親(仕事、財産、家族)を棄てて、「すぐに」イエスについていきました。この時の彼らの葛藤や期待といった心理を福音書は一切記していません。ただ彼らを招く思いがけない主の声があったこと、彼らがこの言葉に従ったということ、ただそれだけが決定的なことだったのです。ルカ福音書のような、網が破れそうなほど大漁となったという奇跡は何も書かれていません。しかし、「奇跡」は確かにここにあるのです。「イエスと共に生き始める」という奇跡です。
それまで、イエスなど知らず、何の関係もなく地道に漁師として生きていた彼らが、なんの脈絡もなく、いきなりイエスに出会い、捕まえられたのです。実に訝し気な話でありながら、わたしたちもまた同じことを経験しているのではないでしょうか。わたしがイエス・キリストを求めたのではない、わたしが選び、必要としたのではない。求め選んだのはわたしではなく、キリストの方であるのです。決定的なことはそこであって、自分にどんな高尚で誠実な考えがあるか、どんなに秀でた能力があるか、逆にどんなに未熟であるかは問題ではないのです。ただ、「わたしについてきなさい」との思いがけない主の招きを聴き、それに応えて生きること、神の支配を信じ、イエス・キリストの命と一体とされるほどに共にあるのだということを信じ、歩み出し始めていくことです。
自分が求め、選んだものならば、いつかは「なんだ教会なんて、聖書なんて」といって、自分の僅かばかりの理解だけでそれを見限り、棄ててしまうということもあるかもしれない。けれども、求め選んだのはわたしではなくキリストの方、この方の決意に全く飲み込まれたというのが正しい理解でしょう。人が自分の選択によって自分の人生を生きる、選択できるということは大切なこと重んじられるべきこと、しかしそれ以上に神によって選ばれた自分であることを知ること、終わりまで神が伴い、御手をもって導きたもうことを畏れをもって知ることこそ、すべての知恵の初めであり、また、ただ一つの望み、慰めです。
■捨てる
札青協のIさんが使徒言行録27章38節から証しをしてくださいました。地中海で暴風に襲われ2週間海上を漂流したパウロと乗員たち。腹いっぱい食べた後、残った穀物を投げすてて船を軽くしたという話から、「本当に大切なものを見つけると、捨てられるようになる」ということを語ってくださいました。この直前の箇所で、パウロは「一同の前でパンと取り、感謝の祈りを捧げてから、それを裂いて食べた」と書かれています。それは、ただの食事ではなく、聖餐を思い起こさせる所作です。パウロは、自分たちの命の危機に際して、パンを裂き、キリストが命を棄てられたことを覚えた、それほどに自分たちが愛され赦された、神に捉えられているといういつまでも無くならない恵みを覚えたということです。その本当に大切なものを確かめたからこそこそ、荷物を棄てることができたのでした。
今日の箇所では、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ4人の漁師たちは、網を捨て、あるいは船を、親を捨てました。それは、それまでの自分自身を捨てたということです。もう少し言えば、それまで、「これさえあれば」「これがなければ」と自分の拠り所にしていたものを捨てたということです。それは、自分の願望や期待によって、何を得たかによって生きるのではなく、自分の富も力も主の御手に明け渡して生かされ、主に用いていただくものとなったという、私たち自身の話がここに語られているのです。
■神はその独り子を世に給うた
かつて、札幌北光教会で教会生活をされ、1951年〜1973年まで23年間、北星学園女子中高や短大でも教師をされたドロシー・テーラーという宣教師がいました。彼女はアメリカの教会で宣教師募集のパンフレットを見て召命感を抱きました。既に40歳を過ぎていましたが、それまでの教師職を捨てて申し込み、日本に派遣されることになりました。母モーリーは、娘ドロシーが70歳になる自分を残し、異国の地で女性宣教師となる決意を聞かされた時に、言い難き寂寥感を感じつつも、「神はその独り子を世に給うほどに世を愛された」との言葉に示されて、娘にさよならと明るく分かれを告げて送り出し、その約3年後に世を去りました。その母モーリーの死を伝える当時の北光教会週報(1952年12月17日)には、その日の礼拝説教者としてドロシー・テーラーの名がありました。説教は「神様への贈り物」というタイトル。聖書箇所は、奇しくも誕生したイエスを両親が神殿で献げるという箇所でした。母は娘を神に献げました。そして、故郷を離れ、母の死に目にも合うことなく、宣教師として身を献げた彼女が、北光教会で語った説教とはどのようなものだったのでしょうか。
「神は、その独り子を世に給うほど愛された」。この箇所において、すべてを捨てたのは、本当は誰なのか。4人の漁師を招くイエス・キリスト、この方にこそ、自身のすべてを与え尽くした神が現れているということを見つめたい。そしてこの方は私たちに言われます。「わたしについてきなさい」。
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