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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■38年
エルサレム神殿近くのベトザタの回廊に横たわる病人。この人の病の年月は、大まかに「約40年」ではなく、厳密に「38年」と記されています。これは単に正確な年数ということではなく、主イエスがその苦悩の日々をまさしく自分事として受け止められたその愛を表わしているように思うのです。そして、これは福音として今日、私たちに語られている話です。「主イエスはあなたのことも、ご自分のこととして知り、寄り添っていて下さる」と。
主イエスは「床を担いで歩きなさい」と彼に告げました。周囲の人が驚いたのは、この人が主イエスの言葉通りに床を担いで歩き出したからではなく、その日が安息日であったからです。「床を担ぐ」ことさえ労働として禁じられる日とされていたのです。主イエスの発言は、律法違反宣言に他ならなかったのです。

■床を担いで歩きなさい!
創世記は、神が天地創造の後7日目に休まれたと物語っています。安息日は、その御業を記念して、神が休まれたように、神によって造られたものも皆、手の業を休め、造り主である神を覚える日です。そして皆が等しく安息を得ることが大切にされました。皆が神の愛と恵みに感謝の一息をついて、また新たに立ち上がっていくための日です。ところがいつからかその本来の目的は取り違えられ、安息日は本来の意味を失い、いたずらに厳守するだけのものになっていました。そんな安息日に何の意味があるのか、まして苦しむ人々を安息日だからと放置するようなことをどうして神が喜ばれるか。だから、主イエスはここで意図して「床を担いで歩きなさい」と宣言したのです。彼を律法の束縛から解放する宣言です。まことの安息のために、イエスはこの現実に切り込んでいったのです。「言は肉となって私たちの間に宿られた」。ヨハネ福音書1章がそう語る言葉が、まさにここで出来事となっています。「床を担いで歩きなさい」。癒されたこの人にとっても、弟子たちにとっても生涯忘れられない一言となったのではないでしょうか。

■寝ずの番をした神、枕するところのなかった主イエス
反発する人々にイエスは言われました。17節「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」。神は、苦悩する者の現実を放置して一人安眠してなどおられないのです。ご自分の安息ではなく、愛する者一人ひとりの安息のために今も働いて(闘って)おられる。「見よ、イスラエルを見守る方はまどろむことなく、眠ることもない」(詩編121)。「主は彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた」(出エジプト記12章)。昼は雲の柱をもって、夜は火の柱をもって民に伴い導いた神です。まどろむことなく、眠ることなく、寝ずの番をして民を守り導かれる神なのです。
主イエスは、ご自分には「枕するところもない」(マタイ8:20)と言われました。飼い葉桶に寝かせられ、最後には罪人として十字架の上に挙げられたイエスの歩みは、どこにも枕するところのない、つまり居場所ないものでありました。しかし、それは言い換えれば、神は眠ることなく、まどろむことなく、働かれる方であることの証しであるとも言えるのではないでしょうか。

■安息の一息、讃美の一息
教会員のMさんが召されました。父親を結核で亡くされ、母親も同じく結核を患って10年以上の療養生活となりました。戦後の貧しさの中、20歳のMさんは5人の弟妹を育てました。その貧しさの中一台のリードオルガンを買ったというのです。相当な無茶をされた。それほど讃美を支えとしたということでしょう。そんなMさんの愛唱聖句はローマ8章でした。「死も、命も、(中略)どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできない」。如何なるものをもってしても神の愛から私を引き離すことはできない。つまり、神の愛に「隙」など一切ない。夜も朝もいつも神は共におられる、喜びの日も、絶望の日も、死の闇においても、すべてを貫いて神は愛である。その信頼と希望によって生涯を歩まれました。
人間にとって最も恐ろしいことは、自分が誰からも忘れられているということではないでしょうか。38年の孤独、しかし彼は、主イエスを通して、自分が夜も朝もいつも絶えず主に知られていたことを知りました。「床を担いで歩きなさい!」。その呼びかけは「神の愛の中を歩め」、「神の光の中を歩め」、そんな呼びかけとして響き続けたのではないでしょうか。
「床を担いで歩け!」。礼拝に集うということはその一つの証しでしょう。生きる様々なしがらみ、悩み、心を重く暗く、足取りを重くさせる現実、その現実から主の招きによって起き上がってここに集い、ここで安息の一息を吐き、讃美の息を捧げ、主の言葉によって立ち上がって歩み出していくのです。「主を讃美するために民は造られた」(詩編102)のです。その安息の息を取り戻すために主は来られました。床を担ぐことを許さない社会、床に縛り付けたままにさせる社会の中で、今日も働いておられます。そして、私たちはその主の体の肢として用いられていく者であることを覚えたいと思います。

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