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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■教会創立122周年
2011年の会堂改修以降、教会員全体の3分1近くが入れ替わりました。実に驚くべき数です。様々な人生が、この教会で出会い、交わり、共に神を見上げて礼拝を捧げ、互いに励ましあい、学び合い、祈りあってきました。この教会がいつも新たな方々を加えながら歩んできた恵みを思うと共に、教会の歴史を継承して歩んでいく重要性を考えさせられます。
正面玄関を出た左側にある定礎石には、「1968」と刻まれています。今年度、献堂50周年です。1968年12月7日に献堂式が行われ半世紀の間、礼拝が守られ続けてきました。皆にとっての居場所であり、また集合場所であるこの教会堂を、これからも大切にし、一層豊かに讃美と献身の礼拝を続けたいと願います。

■パウロの直球
教会が人間の集団である以上、そこには様々な欠けや破れが生じます。コリント教会などはその典型でしょう。コリント教会は、教会であることの本質が見えなくなってしまいそうになっていました。実状を知ったパウロは手紙の冒頭で、教会とは何かをはっきりと示しています。小見出しには「挨拶」とありますが、これは単なる挨拶ではなく、ここに手紙全体を通してパウロの伝えたいことが凝縮しています。渾身のストレートを2球投げています。それは時間を越えて、わたしたちに対するものでもありましょう。

■第一球
「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に」ある群れであるということです。
札幌北光教会は自己完結する群れではなくて、「至るところで主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人々と共にある」教会です。北海教区は連帯を重んじていますが、連帯とは単なる協力ではありません。主の名にあって一つであるということの見える証しです。

■第二球
「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」の群れであるということです。
「聖なる者」とは、神様のものとされて生きる者ということです。神様が、その御手にこのわたしを取り戻して下さった、罪赦されたことを知り、この主の愛と恵みによってこそ生き、遣わされていく人々の群れです。ただ主イエス・キリストの十字架によって築かれた神様との新たな(本来の)つながりの中にあって、御手に生かされている感謝を味わい知り、神様のものとして用いられる使命に生きる群れです。

■洗礼を授けるためではなく
分派対立があり、エゴイズムが溢れるコリント教会に対し、パウロは言います。「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかもキリストの十字架が空しいものになってしまわぬよう、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためである。」(17節)
パウロは形骸化した洗礼を批判します。キリスト者であるという自覚が、いつしか独善的なものになって互いに裁き合い、人間の言葉だけが溢れた福音抜きの現実に警告を発するのです。パウロは、洗礼という救いの手形を与えるためではなく、福音を告げ知らせるために遣わされたのです。キリストの十字架に示された福音が、人を根底から慰め、支え、生かし、導く糧となるために。

■最後まで、真実な方
深刻な問題を抱えるコリント教会ですが、パウロはなお大きな望みを抱いています。教会創立記念に際して8節、9節の言葉を心に刻みましょう。
「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日、非の打ちどころのない者にしてくださいます。」「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」
「主は最後まで支えて下さる」「神は真実な方である」のです。このことを忘れると、教会も一人ひとりの生活も、たちまち神様の業を人間のわずかな尺度(スケール)で測るばかりでしょう。御業は、これまでもこれからもわたしたちの思いを超えて働きます。
神様は、最初の望みだけではないのです。希望と共に始まった歩みも、途中で限界を覚えることがあります。無理だ、無駄だとの思いに塞がれます。この教会にも無牧師の時代があり、戦争に翻弄された時代があり、教会が裂けるような痛みがあり、個々においても、苦悩の日々があり、「信仰などない方がよっぽど楽だ」と思う時があります。けれども神様はそこで最後まで真実であられるということ、そこに望みを置いて今に目を注ぐ時、その人は神を見るでしょう。122年、それは神様が投げ出さなかった、諦めなかった122年です。わたしたちの真実さではなく、ただ神様の真実さによって歩んできた歩みです。「主は最後まで、真実な方」この信仰によって立ち踏み出しましょう。

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