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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■刮目せよ
「見よ、この男だ」。傷つき辱められた主イエスを民衆の面前に示すことで、ピラトは人々の感情を宥めようとしました。「この惨めな男を見ろ、無力で空っぽの人間ではないか」「もうこれで気が済んだか」と。ピラトの声にオーバーラップするもう一つの声があります。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。福音書1章に記された洗礼者ヨハネの声です。屠り場に引かれる小羊のように無力な姿のイエスにおいて世の罪が取り除かれようとしている、罪と死の闇の支配から世を贖い取らんとする神の奇しき御業が行われている、「光は暗闇の中で輝いている」、その御業を「刮目せよ」と言うのです。

■「わたしは世に勝っている」
「十字架につけろ!」地響きのような人々の大合唱に、ピラトは再び官邸に押し戻されました。ピラトは尋問に答えようとしないイエスに向かって苛立ちをぶつけました。「なぜ何も答えないのか。お前を生かすも殺すも、この私に権限があるのだぞ」。「自分には権限・権力がある」。その専横的な発言に対して、イエスは口を開きました。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」。
「あなたはわたしに対して何の権限もない」「この世的な権限・権力には決して支配されない」というのです。現実には、縛られ、傷つけられ、裁かれ、晒され、十字架で殺されてしまうにも関わらず、そのような権力が自分を支配し屈服させることは決してできないというのです。「わたしは既に世に勝っている」(16章33節)との宣言が想起されます。主イエスにおいて現わされた神の愛は、何ものをもってしても支配し屈服させることはできないのです。死という絶対的力によっても。主エスの復活の出来事が、その真理を決定的に示したのです。

■本当の権威
主イエスは、ご自分を引き渡した者たちの罪は「もっと重い」と言われました。なぜなら、彼らはイエスを陥れ自分たちの目的を果たすためにこの世の権力に頼った、つまり神ならぬものを頼みとする偶像礼拝に等しい過ちを犯しているからです。このことは私たちにも向けられている問いかけです。私たちもともすれば自分自身が権威になってしまう。あるいはこの世的な権威を頼みとして自分を満たそうとするのです。自分自身が人生の主となり、生きるも死ぬるもすべて自分のもの、自分の当然の権利だと考えてしまう。そうして無意識の内に神を神として畏れなくなり、神の愛やゆるしも小さく見積もり、自分の力で生きていると思っている。そう思い上がるところで、まさに主イエスを十字架に掛けてしまっているのです。
先週の説教の繰り返しになりますが、もし神様から「あなたの人生の決算書を出しなさい」と言われたら、私たちは収支が合わないことばかり。修正申告すれば「使途不明」としか書けない者ではないでしょうか。神様に愛されてあるこの人生をどう生きてきたか、「あなたも愛に生きたか」と問われたら説明責任を果たせません。誰も神様に対し自分の人生について責任を取ることなど出来ない有様なのです。しかし、そのわたしの責任を主は問わず、このわたしを知り、招き、「わたしがあなたを担い、一緒に行こう」と告げて下さるのです。それこそがわたしたちを本当に捕らえ、すべての人間を照らす主の愛という権威です。

■今日のピラトであるわたし
ピラトは繰り返し、「イエスには罪を見出せない」と言いました。しかし、ピラトが本当に見出せなかったのは、イエスの罪ではなく、イエスにおいて現わされた神の御業、神の愛でありました。エジプトのコプト正教会や、エチオピア正教会といった東方教会の一部には、ピラトがその後、悔い改めてキリスト者になったという伝承があるそうです。史実か否かは定かではありません。「そうあって欲しい」という人々の願望が創り出したフィクションだろうとわたしは思います。「この人には何も見出せない」と言っていたピラトが、やがて「この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は現れたる」(讃美歌21−280番)と真理を見出してキリスト者となった。本当の権威によって捕らえられた。美しいフィクションです。しかし、ピラトを自分自身に置き換えてみる時に、そのフィクションはノンフィクションとなるのです。わたしたちも今日、背きと破れのすべてを担う愛という真理を目の当たりにしているのです。

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