札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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「偽善に気を付けなさい」と聖書は語っています。偽善は人を恐れるところから生じるものなのかも知れません。恐れるというのは、それを力あるものとして扱うことを意味します。それが人であった場合、人を力あるものとして扱うことが生じます。そのとき、神以外のものを恐れることが生じ、わたしたちは真実から遠ざかっていくのです。主イエスは、わたしたちが神のみを力ある方として歩んでいくことを求めておられます。それは、神のみを恐れる生き方です。神ではなく人を力あるものとして恐れるとき、結果としてわたしたちの社会において差別、搾取、迫害、争いが生み出されていくのではないでしょうか。わたしたちが人として生きる権利を奪われていくことのないため、すべてを知っておられ、すべてを創り、すべてを滅ぼす力のある方のみに信頼しつつ歩みたいと思うのです。
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イエス・キリストの歩みは、偽善との戦いでした。虚偽や偽善との戦いの中に主イエスは歩まれ、また主に選ばれた弟子たちは、この戦いを受け継ぐ者とされます。2節に記されている言葉は、簡単に言えば「秘密は必ずばれる」ということです。8章の17節にも、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。」という言葉が記されていますが、いずれもわたしたち人間の内面の事柄で、他人には隠し通せると考えていることでも、神にはすべて見通されていて、やがて必ず暴露されるということを示しています。そのようななかで、主イエスはまず弟子たちに語りかけられます。それは弟子たちを送り出すに当たっての言葉でした。まず主イエスは福音にはあらゆる偽善を打ち破る力のあることを宣言され、弟子たちに福音の真実の確かさを示されるのでした。
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主イエスは、ただ表面的に結論として「神のみを恐れよ、神には全てお見通しである」と言われているのではありません。この教えの決定的な根拠を示されます。4節、「友人であるあなたがたに言っておく」。‥‥‥主イエスは弟子たちを友と言われ、ご自身の友としての弟子たち(わたしたち)に向かって、多くの働きを託されたのです。ヨハネによる福音書の15章12節以下において、主は「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることをあなたがたが行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」‥‥‥ここで真実の愛を、すなわち、友のために命を捨てるということを示された主イエスは、十字架の死をもって地上の生涯を完結されました。弟子たちは、自分たちのために命を捨てられた主イエスの愛の確かさの意味を、「友」という言葉のなかに見出し、はっきりとした連帯を確信したことでしょう。わたしたちも主イエスに聞き従う者として、彼ら弟子たちに連なるものです。主イエスが示された「わたしの友」という言葉をわたしたち一人ひとりに向けられた言葉として受け止めたいと思います。
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これに続いて、真に恐れるべき方が誰であるかについて示されます。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」真に恐れるべき方は、殺した後で地獄に投げ込む権威を持っている方であるというのです。これは弟子たちが(わたしたちが)一切の偽善から解放されるために必要な「希望の言葉」です。偽善はわたしたちを真実から遠ざけようと働きます。真に恐れるべきものを見失わせます。しかしわたしたちが真に恐れるべき方を知るならば(わたしたちが知ったからには)、偽善はわたしたちのもとから遠ざけられるでしょう。5羽2アサリオンで売られている雀でさえ、神は忘れることはないのです。アサリオンいう貨幣単位は約4円相当といわれます。雀は小鳥の総称として用いられ、取るに足らない、価値のないに等しいものとして用いられています。髪の毛も同様です。聖書はしばしば小さいものから大きいものへ言及する語り方をしますが、ここにおいても、わたしたちから見れば価値のないほどに小さいものにも神の愛が注がれているのだから、それに勝るわたしたちに向けられていることを考えなさいと語りかけ、わたしたちを神への信頼へと導くのです。ここにおいて、真に恐れるべき方への思いは大いなる信頼へと向けられていくのです。たとえどれほど「この世的に」小さい者として扱われようと、わたしたちは神に覚えられ、愛され、何よりも主イエスに友と呼ばれている一人ひとりなのです。
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