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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■人生をどう総括しますか
エマオの村を目指して歩く二人の弟子。しかし、その足取りは生きる目的を見失っていました。主イエスに対して抱いていた希望も、この方に従おうと決意したかつての熱意もすべて儚く潰えました。彼らは主イエスに望みをかけていたのです。それは21節で語られているように「イスラエルの解放」です。「この方こそ、ダビデ王家から興されたメシア・王として、他国に支配され蹂躙され続けてきたイスラエルを敵の手から解放して下さる方なのだ」と。エルサレム入城の時、弟子たちの群れは、誇らしく声高らかに神を賛美しました。「主の名によって来られる方、王に祝福があるように!天には平和、いと高きところには栄光!」(ルカ19:38)。あの日の希望に満ちた光景は、すべて幻であったかのように、二人の弟子たちは都を立ち去っていくのです。
道すがら、二人は互いに話し合い論じ合いました。それはこれまでの歩みを自分たちなりに総括していたのです。3月の教会総会で1年間の活動のまとめを行いました。課題を認識し、活動における気付きや展望を「話し合い、論じ合った」のです。しかし、それは単に私たちが計画し、行なったことの私たちなりの総括ではありません。そこに生きて働いて下さっていた神様の恵みと導きを感謝をもって振り返るという信仰の作業です。そういうまとめ・総括があって次の年度に向かっていくのです。それぞれの人生もそうです。信仰者は、自己評価や他者の評価だけで人生を総括するのではありません。たとえ、この世的な評価ではつまらなく、哀しみや失敗に満ちた人生であろうと、神がこのわたしを我が子として愛し抜き、赦し続け、いついかなる時にも伴い続けて下さったのだと感謝をもって総括することができるのです。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)なのです。

■主を閉じ込めていませんか
エマオへ向かう二人は、これまでの一切の事を総括していました。しかし、その顔はこれまでの神の恵みと導きを振り返り、感謝と平安に満たされた顔つきではなく、暗く沈んでいました(17節)。彼らは自分の考えや評価の範囲内でのみ結論付けようとしていました。そうして、すっかり失望し、「すべて意味がなかった」と惨めさや哀しさに打ちのめされているのです。彼らは、主イエスの復活という不可解な知らせについても論じ合いました。しかし、二人の結論は、さしずめ「何者が遺体を盗んだのだろう」というものでしかなかったしょう。二人にとって主イエスは、墓の中にあろうがなかろうが、死に閉ざされたままなのです。
どこまでも自分の思いに閉ざされた彼らを追いかけ、一緒に歩き始め、彼らと語り合う復活のイエスの姿がここに描かれます。その方が主イエスであることに一向に気付かない二人の弟子が、少々滑稽にすら見えてきます。福音書はここで皆さんに語りかけています。「これは、あなた自身の姿ではないのかい?」と。自分の理解の及ぶ範囲、自分や他人の評価の中でしか見ようとせず、ある時は夢や希望や決意に満ち溢れたかと思えば、反対にすっかり意気消沈し、すべては無駄だったと途方に暮れてしまう。あなたも、主イエスを死の中に閉ざしたままではないのか?あまりにも自分の思いに縛られてはいないか?と。しかし、そんなあなたを見つけ出し共に歩む方が今日生きておられるのです。あなたのために自分の命をすべて注ぎ出して下さる主がおられるのです。

■「無理に引き止めた」が…
目的地エマオを過ぎてなおも進もうとされたイエスを二人は「無理に引き止め」ました(29節)。しかし、結果どうだったでしょう。イエスが食事の席でパンを裂いて彼らにお渡しになり、それまで遮られていた二人の目がついに開かれ、イエスその方だと分かった瞬間、もうその姿は見えなくなったというのです。これは、主イエスを自分たちの手で無理に引き止めることはできない、自分の思いのままにイエスをとらえることはできないのだということです。彼らはこの時気付かされたでしょう。自分が主をつかまえるのではなく、自分こそが復活の主、真の羊飼いなるこの方によってとらえられている者であること。そして、この方に自分を明け渡し、この方に養われ、導かれていく、そのように自らの人生を見つめるものとされていったのです。

■主よ、共に宿りませ
「主よ、共に宿りませ」。人の思いがキリストを無理にそばに留めることはできません。キリストが、わたしの人生の主として、わたしの生きるすべての時、すべての場所をご自身の居場所として伴っていて下さるのです。わたしたちの思いなどはるかに越えてとらえていて下さるのです。わたしが人生において抱く数々の望みも、わたしが抱く死への恐れ悲しみも越えて、主はその愛をもって導いて下さるのです。その愛に心燃やされ、与えられた人生に主の恵みを確かめ、主の御手に明け渡して進みゆきましょう。

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