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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教  >ラザロの復活A〜私は復活であり命である


■教会創立128年。「永遠」を想う
教会創立時の名簿に名を連ねる藤井太三郎は、1893年、「北の大地に神の国を建設せん」とのビジョンを胸に、甥(養子)の専蔵と滋賀から渡道。札幌で紙業を始めましたが、後に業界の第一人者となりました。1896年の札幌組合基督教会の創立に際して尽力し、「札幌に相当する会堂を見るまでは、自分の住宅は新築しない」と決心しこれを実行しました。質素倹約に徹する一方、教会のためには惜しまず献げ、日曜日には厳格に店を休んで多くの信徒らに影響をもたらしました。新会堂献堂を果たした3年後(1916年)、太三郎は68年の生涯を閉じました。このような先人の信仰と祈りの先に今日のわたしたちがいるのです。そして、なおここから神は私たちの祈りを未来へと紡いでゆかれます。教会創立を記念するということは、ただ昔を振り返ることではなく、そこに永遠なる神の御業、神の導きを見つめるということです。神は、昨日も今日もとこしえに変わることのない方として、一切のことを、人の生も死も愛の内に捉え導かれます。
藤井太三郎は、愛する初孫の死に接し、その葬りの際、言いがたい悲痛の中にも感謝の意を表し、地上の全人生を神にささげる決心を表明しました。また、息子・専蔵の妻は、夫と子を失った悲しみの中にも、神の教会のためにその後も変わらず奉仕を続けました。そこにあった信仰は如何なるものでしょうか。家族も財産も突如として失ったヨブは告白しました。「主は与え、主は奪う。主の御名はほむべきかな」。即ち、一切はただ主の御手の内にあるということです。そして、私たちは、この主がとこしえに愛の神であるということを聖書を通して知っています。教会は、永遠なる神の愛を見つめ、喜びも悲しみも苦悩も一切はただ主の愛に治められていることを共に信じ、主の御名を共々にほめたたえて歩んできました。この信仰を受け継ぎ、また後に継承していくものでありたいと思います。

■悲しみの底に響く福音
「わたしたちの友ラザロが眠っている、彼を起こしに行こう」。主イエスは、ラザロのところに向かっていきました。ラザロは既に死んで墓に葬られ4日が経っていたのです。葬儀はまず墓に葬ってから1週間に亘り行われましたから、イエスが到着した時は葬儀の真只中、悲しみの真只中であったということです。イエスを迎えに出たマルタが言いました。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」マルタの嘆き、悔やんでも悔やみきれない悲しみ、それは兄弟ラザロが死んでしまったということだけでなく、主イエスが来てくれなかったことにありました。たとえラザロの病が手の施しようのないものだったとしても、主イエスが自分たちの悲しみに寄り添ってくださるだけでも慰めになったかもしれない。「なぜここにいて下さらなかったのか」。悲しみのどん底にある姿がここに描かれています。わたしたちは、マルタの訴えに心を痛めつつも、この場面の根底で響いている福音に耳を傾けたいと思います。ヨハネによる福音書は1章や3章で「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と告げています。主は来て下さらなかったのではない、遅きに失したのではない。言は肉となってわたしたちの間に宿られた。神はその独り子を世に与えられた、神御自らが私たちと同じ一人の人間として、死と嘆きの闇の世に来てくださったのだ、という福音こそが示されているのです。すべてのものの命の光である神の永遠の愛が語られているのです。

■わたしは復活であり、命である
主イエスは、マルタに言いました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は決して死ぬことはない。このことを信じるか」。これは悪い冗談でも、死をごまかすような安っぽいファンタジーでもありません。神の愛のゆえに人は死んでも生きる。死は「終わり」を意味しないのです。すべてのものに等しく訪れる死、それは人の命や人生というものが根本的には無意味で虚しいものであるということを無情にも突きつけるものではありません。死は、自らをはるかに超えてゆく神の愛を私たちに示しているのです。
今日の教会創立記念礼拝を前にして、先週は、Sさんの納骨式、Aさんの葬儀式、Nさんの記念会がありました。いずれもこの方々の信仰が証しされる時であり、この札幌北光教会が、何を信じて歩んできたかを再確認させる時でした。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。・・・このことを信じるか」。主は今わたしたちに問いかけておられます。それは問いかけであり、同時に「招き」です。「生も死もすべてを治めたもう神のとこしえの愛」、その希望へとすべてのものが招かれています。この希望の福音をここからも宣べ伝えていくと共に、この希望を隣人と分かち合いながら、「相愛し、相助けて、民から民へと神の国を広めていく」(教会の主意)札幌北光教会として歩んでいきましょう。

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