札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光

日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

札幌北光教会/トップお問い合わせ
札幌北光教会/トップキリストの招き平和宣言過去の信仰告白オルガン結婚式・葬儀アクセスマップfacebook
教会案内礼拝案内集会案内牧師紹介/説教納骨堂/クリプト北光貸し会議室

>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教  >まだ悟らないのか


■分かち合う奇跡
5千人がわずかなパンと魚で満たされたという奇跡物語。しかし、聖書には一言もパンと魚が「増加」したとは書かれていないのは何故でしょう。この物語は、パン増加ではなく、今ここにあるものを感謝し分かち合うところに現れるまことの豊かさを伝えているのでしょう。それは単に内面的な豊かさの話ではなく、互いに分かち合って生きるところにこそ、神の祝福は現実のものとなって現わされるのだということです。
「分かち合う」「共に生きる」と口で言うのや易いことですが、実際のところ口先で終ってしまうことのなんと多いことでしょう。もしもこの時、弟子たちが配らなければ何も起こらなかった出来事だったのでした。同じく私たちは今日、主イエスから「あなたが配りなさい」と求められています。
わずか2匹の魚と5つのパンしかなかったこと、それは人々にとって「問題」でありました。彼らは、ただパンと魚を分けあおうとしたのではなく、自分たちの間にあるこの「問題」を分かち合ったということでもあるでしょう。あの人の抱える問題、悩み、恐れ、貧しさ、決して「こんなもの」とはせず、自分自身に関わる問題として、全体に関わる問題として分かち合った、そこに神の祝福は現れるのです。「見よ、兄弟が共に座っている、なんという恵み、なんという喜び」(2022年度のみ言葉)。わたしたちは、この人と喜びも苦しみも課題も分かち合うものとして互いに神によって出会わされ、共に座っているのだと知るところに「なんという恵み、なんという喜び」という讃美は生まれ、神の祝福は現れてくるのです。そのような教会の方向性を確かめたいと思います。

■ファリサイ派・ヘロデ派の「パン種」
五千人の給食は、今あるものを分けあった出来事であり、増大・拡大という志向ではありません。主イエスは「ファリサイ派とヘロデ派のパン種・・・によく気をつけなさい」(15節)と警戒を促しました。これはファリサイ派やヘロデ派といった人々の誤った考えが膨張・増大することへの警戒です。ファリサイ派のパン種とは何でしょうか。第7章において、ファリサイ派の人々は、主イエスの弟子たちが食前に体の汚れを清めず、宗教的しきたりを守らなかったことを咎めました。これに対し主イエスは「あなたがたは人間が作り出した伝統や規則ばかりに囚われ、実際には神の言葉を蔑ろにし、神の心から遠く離れてしまった生き方をしている」と彼らの偽善と傲慢とを厳しく批判したのでした。群衆によるパンと魚の食事において、誰が体を清めてから食べたことでしょう。その場には、貧しさや病を抱える人々や、ファリサイ派によって罪人と裁かれ、つまはじきにされた人々もいたことでしょう。ファリサイ派の人々によっては、汚れた光景かもしれませんが、まさにそこにこそ、まことの聖さ、神の祝福が現わされていたのでした。
ヘロデ派のパン種とは何でしょう。彼らはローマ帝国という強大な権力を後ろ盾にガリラヤを統治していたヘロデ王家を支持する一派でした。ローマの支配を受け入れながら、そこでの自分たちの地位と繁栄の増大を追い求めていたわけです。その有り様は、この世の権力に拠り頼む、本当に聞き従うべき神を蔑ろにするものでありました。ファリサイ派にせよ、ヘロデ派にせよ、神が真に求めておられることに対しては心暗く、地上の自らの正しさや力に囚われていたのです。

■たった一つ?いや、ただ一つ
この時、主イエスの弟子たちは、舟の上でパンをどこかに置き忘れてしまい、たった一個しかないことばかりに心を向けていましたが、主イエスはファリサイ派・ヘロデ派の主義主張がパン種のように拡大・増大していくことをこそ注意せよと言われたのでした。このことは、わたしたちが生きている今この時代、社会の状況に見事に当てはまるように思います。この社会には、人々の様々な利害がうごめき、その中で人間の主義主張が増大・拡大しています。これこそが正しい、それこそが平和と繁栄の道だと叫ばれ、過去の悲惨を早くも忘れ、力を選び取っていこうとしています。その中で、わたしたちは何を見つめるべきでしょうか。弟子たちがパン一個しかないことに悩み騒いでいたように、わたしたちは自分たちの小ささ、弱さを嘆くばかりでしょうか。弟子たちが嘆いていたそのパンは、これを分かち合って皆が満たされた神の祝福の出来事を証しするパンでした。誰一人こぼれることなく、皆が神に愛され祝福された存在として喜びも苦しみも分かち合ったその豊かさを証しするパンでした。そこに歩むべき道は示されていたのです。
「まだ悟らないのか」、主は私たちに言われます。わたしたちもまた一つのパンを持っているのです。それは「たった一つ」のパンではなく、「ただ一つ」のパンです。すなわち、朽ちることのないイエス・キリストという命のパンです。キリストがその命を裂いて献げて下さったということ、ここに神の愛の真実を覚える時、わたしたちは何度も繰り返し、このパンに示された神の愛に生かされ、この愛を分かち合って生きていく決意を新たにし、この地にまことの豊かさと平和を証ししていきたいと思うのです。

前のページに戻る

お問い合わせ北光幼稚園

個人情報保護方針について