札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■アドヴェントを生きる
飼い葉桶に生まれた主イエスは、約30年後、ガリラヤの丘に集まった群衆にこう話されました。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。家畜小屋で我が子を抱いたマリアとヨセフも、きっと、そんな神様からの言葉を聴くような思いだったかもしれません。「明日のことまで思い悩むな」。私たちもまた同じです。イエス・キリストと共に生きる生活、それはいつも平安と感謝で満たされているとは限らない、先の見えない不安に包まれる時もあるでしょう。しかし、だからこそ、わたしたちは、共におられる主がその御心をもって最後まで導いて下さることを信じ、明日を思い煩うよりも、その日を待ち望んで、今日この日、今この時わたしが担うべき労苦を、わたしが果たすべき務めことをしっかりと担いながら生きていくのです。それがキリストと共に生きる私たちのアドヴェントです。
■神の愛をこの胸に抱く
今日、わたしたちもマリアやヨセフとして、幼子イエスをこの手にこの胸に抱いています。わたしたちのこの手は、労苦にまみれ、悩み傷つき、時に争い、涙を拭う手です。私たちの胸は、幼子主イエスを抱くに相応しい広くて温かな胸ではなく、時にとても狭く、冷たい胸、明日を思い煩い、動揺し、偽り秘めてしまう胸です。わたしたちは、この幼子を最後まで抱き続けることができるかと言えば疑わしい者です。途中で抱くのをやめてしまうかもしれない、信用に足らない、無責任な者かもしれない。救い主を抱くどころか、その方の靴紐をほどくにも相応しくないもの。しかし、キリストはその私たちの手を絶対に必要とする幼子として世に来られました。神はそのように全く一方的な仕方で、ご自身の愛というものを現わされました。私たちには、この愛をノーと拒絶する選択肢はありません。「神はその独り子を与えるほどに世を愛された」、その事実があるだけです。
■たとえ余地なくても
「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」。救い主の到来、何百年間も人々が待望してきたその日その時がつい訪れるというまさにその時に、「宿屋が一杯だった」とは、なんと滑稽な!しかし、実にこのような人間の都合や、気まぐれが、いつも神の愛を、神の赦しを拒絶し、無視してしまってきたのです。神は「宿屋が一杯なら仕方ない」と諦めて、独り子を天に引き戻されたでしょうか。決してそうではなかった。この世の人間の都合・事情が満ち溢れ、どこにも余地がないようでも、飼い葉桶のようなところであろうと、そこにご自身の愛を表されたのです。飼い葉桶は、そんな神の決断を映し出していました。
■産声は十字架上の叫びに
主イエスの「産声」は、十字架の上の「叫び」に続いていました。産声に既に十字架上の叫びは響き始めていました。「我が神、我が神、なぜお見捨てになったのですか」。その裂けるような叫びは、この世界で絶望する人々を代表するような叫びでした。人々の「なぜ」との神への訴えが十字架のイエスにおいてこそ叫ばれていました。主イエスの叫びは、群衆の罵声の中で掻き消されてしまったでしょうか。結局、空しく死んで墓に納められただけだったでしょうか。主イエスの復活、それこそが神のこの世の叫びに対する答えでした。「わたしはあなたを見捨てない」「永遠に愛し、永遠に赦し、あなたと共にいる」。「あなたに平和があるように」。
神の愛は、十字架でご自身を捧げられた「死ぬほどの愛」ではありません。それどころか、その死をも越えるほどの愛です。私たちは今日、キリストを世に与えられた神のその愛をこの胸に抱き、イエスを死から復活させられたその愛によって存在まるごとを抱かれています。
■おめでとう恵まれた方、主があなたと共におられる
飼い葉桶の幼子イエス、私たちはその幼子の姿に、神よって確かに愛されて命つくられた私たち自身を見出すことができるのです。神はあなたを忘れてはおられない。無とはされない。死に至るまで、いや死をも超えてあなたの神であり続けられる。その約束を飼い葉桶の中に、そしてまた空っぽの墓の中に見るのです。
ここから、わたしたちは主の愛に導かれて歩み始めていくのです。アドヴェントを生きていくのです。明日は見えない、先は見えない、設計通りにはいかない、しかし、主がその御心をもって導かれる一日一日であることを信じ、神の時が満ちるその日その時を待ち望み、目を覚まして、主の御国に至る旅を始めていくのです。「おめでとう恵まれた方、主があなたと共におられる」。あの日マリアが聞いた天使の祝福を心に響かせながら。
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