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聖書はイエス・キリストから示された教え(愛)を実行する第一歩として、互いを一つの体の各部分にたとえ、人が互いに受け入れ合うことの大切さを教えています。自分が数多くの欠点や弱さを抱える者であることを自覚し、共感の心で他者に接するようにとの教えです。それは、他者を咎めたり、裁こうとすることとは逆の行為です。

ところが、自分は常に正しい、欠点や弱さなど持ってはいないと思い上がって、そこから他者を裁いたり、切り捨てる心が起こります。このコリントの信徒への手紙を著した使徒パウロもかつては思い上がりが激しく、自己中心的で、他者を裁く人間でした。しかし、弱い人に出会ったとき、誰かが傷ついているとき、決してその人を放置せず、弱さや痛みを同じように感じ、自分も背負うことができるように変えられていきました。キリストの教えと出会い、自分の弱さ、人間の本来の関係、真実の姿を発見したからです。

わたしたちは誰もが弱さや傷、欠けを抱え、いつもそれらを背負って生きています。普段は意識しないで済んでいるかもしれません。しかし倒れた時には、その重荷は実際以上に重くのしかかってきます。自力では立ち上がれないその人は、自ら身をかがめ、助け起こし、一緒に立ち上がろうとする誰かがいなければ放置されたままです。
イエス・キリストはわたしたちに、身近な人であろうと、直接には出会わない遠くの人であろうと、痛みを共有し合う関係を築いていくことを求められています。神の愛はそのようにして(のみ)この世界に実現していくからです。ところが、「互いに受け入れ合うこと」が、当たり前のことではなくなっています。相手を拒否して受け入れない、助けるどころか踏み台にする、与え合うのではなく奪い合う、重荷を背負い合うどころか押し付ける、そのようななかで本来あるべき人間関係が壊れてしまったのがわたしたちの社会です。

一方で今の人たちは「優しく」なったと言われます。他者を傷つけることのないよう気を遣うのです。しかしその理由は、自分が傷つくことを極力避けているからかも知れません。表面上は親しい間柄を装いつつも、一方では相手の内面に決して深く踏み込まないのが暗黙の了解事項です。無意識にせよ相手の気持ちを推し量ることを一定以上はしないという「ルール」が成り立っているのです。心の奥に立ち入っていくことは、程よい関係を維持することの妨げとなるとでも言わんばかりです。スマートフォンには驚くほど多くの「名簿」が登録され、顔も知らない相手も珍しくない、その場限りの楽しい会話、頻繁にラインやメールのやり取りを求め、次々に切り替えることのできる相手との気軽な付き合いが日常化する、そのようななかで人は決定的に大切なことを失いつつあります。失いつつある決定的なものとは、「一人」です。わたしたちの社会は「一人を失っても傷まない人間関係」が成立する社会に向かっているのでしょうか。そのような人間関係は表面上の明るさと楽しさと楽しさを共有すること以上の何ものをも求めません。親しい間柄であることの条件に悩みや悲しみの共有は必要なく、それどころかかえって妨げにさえなるのです。そのようななかで痛みや悲しみが排除され、悩みや苦しみの声が黙殺・無視されていきます。結果として表面的な人間関係そのものが、他者を傷つけ、苦しめる力へと転化し、結果として傷みを負った人の悲しみ、悩み、傷みが増幅されていくのです。

わたしたち一人ひとりは一つの体を形作る多くの部分であると聖書は説きます。体においてはたとえ指先のわずかな傷も放置されることはありません。

・・・・・・・・ 痛むからです ・・・・・・・・

イエス・キリストは痛みを訴える者に眼差しを注がれました。大勢のなかで助けを求める小さな声を聞き逃されませんでした。一人さえも滅びる者があってはならないからです。わたしたちの現実における互いの関係を厳しく問いつつ人と人との本来あるべき結び付きを示されます。わたしたちは、一人の小さな、助けを求める声に気付き、痛み悲しみ深く共感する者となることを求められています。傷つき、切り捨てられ、果ては生きていることを否定されている人がいることに気付き、その傷みに関わっていこうとする姿勢 ・・・・・・ 一人も滅びない社会はこうして、このようにしてのみ築き上げられていくのでしょう。

わたしたちは果たして本当に他者の傷みを感じることができるのでしょうか。気付き、共感し、行動することができるのでしょうか。イエス・キリストが多くのなかの一人を見出し、注がれた「痛みを訴える者に向けられた眼差し」を、わたしたちも持っているのです。持っているはずなのです。それがイエス・キリストの眼差しを絶えず受けている者の証しだからです。必要とし合う関係を築き上げるために、イエス・キリストから与えられた眼差しを働かせましょう。わたしたち一人ひとりは小さいですが、互いが一つの体を形作るためのかけがえのない存在なのです。

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