札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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皆さんは、幼稚園児くらいの子どもたちのため息を聞いたことがありますか?大人の思うため息というのは、ネガティブな事柄がまず思い浮かびますけれども、子どもたちが夢中で遊びきったあとに自然と出る、このため息。何も分からない不完全な存在として扱われがちな子どもですけれども、実は、自分をより良く成長させようとしている証拠なんだそうです。
私は今年度、どんなため息をついていただろうかと思います。コロナで教会に集えない時がまた、続きました。教会とは、神の家族でありますから、家族と会えない、交わりを持てない、一緒に食事をすることができないというのは、本当に大変な、命に関わることが、ここ2年もできていないなんて、本当にどうしたものかと思わされます。教会とは何か、家族とは何かということを問われ続けています。
家族の定義とは、どのようなものでしょうか。「あなたの弱さとか問題とか、すべてを共有します」ということも一つの定義であると思います。
主イエスの生きられた「現場」とは、最下層、最底辺のガリラヤの民衆の中で、さまざまな「苦しみ」を共有しながら生き続けられたものでした。それこそ、社会の底辺に置かれていた人たちと共に食事をし、弱さや問題をすべて共有した家族のような関係であったことでしょう。現代のこのコロナの時代、主イエスがなさろうとすることは、明白です。家に居場所のない子どもたち、コロナで職を失った人たち、そういう人たちに食べ物を提供し、安心して過ごせる場所を確保する。また、孤独を覚えている人たちを訪ね歩き、励ましていく。私たちは簡単に想像することができるのです。でも、一方で、実際にそうすることで、コロナが広がったり、他に考えていかなくてはならないこともあるため、それを実行していくことは簡単ではないことも知っています。だから、主イエスに「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」という言葉が時に重く、私にはできないと思ってしまうのではないでしょうか。
しかし、キリスト者にとって「イエスに従う」ということは、「イエスと同じ道を一緒に歩く」ことであり、イエスと同じように生きることにほかなりません。イエスのように生きることが私たちの本来的な在り方なのです。
主イエスは、ペトロとヤコブ、ヨハネ3人の弟子を連れて高い山に登られました。するとそこで主イエスの姿が神々しく輝き、モーセとエリヤが現れて語り合うという神秘的な光景が描かれます。この不思議な出来事は、一体何を私たちに伝えようとしているのでしょうか。一つは「イエスこそメシア、神の子である」ということでしょう。もう一つは、神の子キリストは、その栄光の高みに留まることを捨てて、十字架へと進みゆかれたのだということです。最後まで、私たち人間の苦しみを共有し続けてくださったということです。主イエスは、自分の身だけを栄光と権威あるところに、あるいは安全なところに置くことを求められたのではなく、それらを捨てた方でした。山を降り、その先にあった十字架という絶望は、人間の希望をことごとく打ち砕く出来事です。しかし、主イエスは山を下りられ、十字架へと進まれたのです。
主イエスが、「自分の十字架を背負ってついてきなさい」と言われました。主イエスは、高い山に登って、上から下を見て、私たちにだけ「重荷を負わせよう」と言っているのではないのです。自ら十字架の苦しみの中に身を置かれ、その十字架が希望に変わることを示されました。それが、イエスの十字架と、イエスの復活です。
それでも私たちは希望を失いそうになります。しかし、私たちには神の家族がいるのです。つまり、「お互いの弱さを受け入れ合って、一緒にいる人たち」です。弱いままでも、安心して、一緒にいられる。それは、なかなか難しいことですけれども、神さまは、神の国っていう最高の家族をつくるために、最高の方法として一人ひとりに「弱さ」っていうものを与えてくれたんでしょう。
2022年度、私たちは、どんな人たちと出会い、どんな家族に成長していくのでしょうか。神様が与えてくださった、このチーム北光で、どんなことができるでしょうか。お互いが支え合って、力を尽くしていきたい。私たちも自らより良く成長できるように、ここで終わり、と決めつけず、やり続けていきたい。そして、小さな子どもたちが夢中で取り組んだあとに出る「はぁ」というため息をついていたいと思います。
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