札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■「世にあって星のように輝く」
捕らわれの身であったパウロは、夜空に輝く星々を見つめていたのでしょう。何も飾らず、何も語らず、ただ澄んだ輝きを放つその星々が、遠くにいるフィリピの信徒たちの姿と重なったことでしょう。「世にあって星のように輝く」。この輝きの秘訣とは何か、それが今日の箇所に語られていることです。それを一言でまとめると、「あなたがたにまことの救いをもたらされたイエス・キリストを見つめ、そこに自分自身の生きる道を確かめる」という在り方です。
主イエスは、「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)と言われました。それは「世の光になれ」との命令ではなく、「今日、ここで、あなたは、世の光である」との宣言です。すちなわち、あなたという人間は、ただ自分のためにあるのではなく、世(他者)のための光として存在しているのだという気づきを与える言葉です。パウロもまたここで、「自分一人の輝きを求めよ」ではなく、「めいめい自分のことだけでなく、他者のことにも注意を払いなさい(他者に注目しなさい)」(4節)と言うのです。
■虚ろな輝き
自分だけに注目して、自分だけが輝こうとするならば、それは「利己心や虚栄心」(3節)です。利己心と虚栄心による輝きは、星のような輝きとは違い、虚ろではないでしょうか。「虚ろ」とは、中身が空っぽ、満たされていないということです。この輝きの違いはごまかせないものでしょう。利己心や虚栄心というのは、実のところ、満たされない飢え渇きをいつまでも繰り返しているということであり、自分のものさしで自分と他者を測り優越感や劣等感を繰り返し、不平や、理屈まみれになってしまうのです。
イエスの弟子たちは、「誰が一番偉いか」と議論したり、またある弟子は「あなたの右と左に私たちを置いてください」と願いました。レプトン銅貨2枚を神殿に捧げた女性の横で、金持ちがこれ見よがしに多額の献金を投げ入れていました。サウル王は家臣であるダビデを妬んで度々暗殺を図り、祝福を奪われたエサウは弟ヤコブを長く憎み続けました。カインとアベルの兄弟の物語もそうです。聖書の物語の多くは、なにかしら人間の利己心、虚栄心という哀しさを描き出しています。
■「キリストにある自分」を見つめる
パウロが、利己心や虚栄心を捨てよというのは、単なる美徳としてではなく、6節以下のことが根拠です。(6〜11節は初代教会で定型として用いられていた賛美・告白)「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
自らを空しくし、最も低みに立たれたキリスト。罪ある人間と同じ者となられ、十字架で世の罪と汚れをその身に負って死なれたキリスト。このキリストによって担われ、贖われたという真の恵みと幸いを見つめるならば、利己心も虚栄心もなんら必要ないことが分かるのです。そして、キリストの死と復活の命に結ばれている自分であるがゆえに、キリストが謙り、他者を尊び、仕えたのと同じ様に、自分もその道を見つめ、選んで生きていく、そこにこそ、虚ろな輝きではない星のような輝きがある、本当の喜びと誉れがあるというのです。
■邪な時代の中で、本当に重要なことを見分ける
世界はこれからますます自国ファースト、自国民ファーストの流れが加速していくでしょう。キリスト者でさえ、このような流れを歓迎し、迎合しているところがあります。自分の栄光と繁栄を求め、他者を見失い、高ぶり、見下し、踏みにじる。あるいは不都合な歴史は修正し、不都合な記録は改竄する。そんなことがまかり通っている。なんという利己心、なんという虚栄心。パウロは、この手紙の初めの方でこう言っています。「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」。これは本当に今、この時代の中にある私たちに向けられた切実な呼びかけとして受け止めたいと思います。キリストを見つめ、そこで本当に重要なことを見分け、命の言葉を聞き、小さくとも闇の中で輝く星としてありたいと願います。
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