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今日から受難週に入ります。この日曜日は主イエスの最後のエルサレム入城を、人々が棕櫚(しゅろ)の葉を持って盛大に出迎えたのに因んで、「棕櫚の聖日」と名付けられています。棕櫚の葉は「凱旋の将軍」を出迎えるためのものでした。つまり人々は凱旋の将軍を出迎えるようにして主イエスをエルサレムに迎えたのでした。何故でしょうか。それは人々が主イエスを、かつてのダビデ王国を再現してくれるようなイスラエルの王として期待していたからです。自分たちをローマの圧政から解放し、新しいイスラエル王国を築いてくれる者と考えていたからです。ルカによる福音書には「もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」(19:40)との主イエスの言葉が記されていますが、そう表現されるほどに誰にも止めることが出来ないほどの勢いで、人々は歓声を上げて主イエスをエルサレムに迎え入れたのでした。しかし歓声を上げて主を迎え入れた人々の中で一体誰がエルサレム入城の意味を理解していたでしょうか。旧約聖書に記されている「救い主は人々の手によって殺される」との言葉が成就されるためのエルサレム入城であったということを、果たしてこのとき主イエスご自身のほかに誰が(弟子たちさえも!)知り得たでしょうか。実際ここにいた人々はすべて5日後には、たった5日後には、自分たちの期待、すなわち「力ある業をもって戦いに打ち勝ち、目に見える形で自分たちの王国を築き上げてくれる」との期待が裏切られたと思いきるや、一斉に歓声とは正反対の叫びを上げることになるのです。「その男を殺せ。十字架につけろ、十字架につけろ。」

この5日間の人々の心の変化、それは単なる群集心理によるものとして片付けられるものではありません。聖書はこれを、決定的な人間の罪の現れとして描き出します。イエス・キリスト(神)を自分たちの思うままに利用しようとする罪です。この罪こそが主イエスを十字架につけたのでした。

棕櫚の葉を振りかざし、歓声を上げている人々の声は虚ろな、空しい声だったのです。それは、悔い改めのない、単なる自己の欲求を満たすことを求める声であり、自己の利益追求の声です。自分の思いを神に押し付けようとする自己主張の声に過ぎないのです。自分を変えたり捨てたりすることを拒否し、自分たちの得になるようなこと自分を「強くしてくれる」ことであればそれを利用しようとする者たちの群れの声に過ぎなかったのです。信仰とは、ただ主イエスに向かって歓声を上げるだけのものであってはなりません。信仰とは「聞いて従う」ことです。エルサレムにて歓声を上げて主イエスを迎え入れた人々の実際の姿をわたしたちはいつも思い起こさなければなりません。わたしたち自身の現実の姿と照らし合わせなければなりません。繰り返しますが、彼らは5日間で主イエスを十字架につけたのです。
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さて、主イエスは「ろば」に乗ってエルサレムに入られました。これは旧約聖書のゼカリア書、第9章9節の預言、「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗ってくる。」と記されていることの成就ですが、ここで主イエスが用いられたのは、「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだ誰も乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて引いてきなさい。」(30節)と記されているように、まだ誰も乗ったことのない「子ろば」でした。軍馬のような力強い馬ではなく、競走馬のような俊足でもありません。「ろば」です。「のろまな」動物の代表格です。あまり役に立つとは思えません。しかし主イエスを乗せるのです。否、主が乗るために用いられるのです。決してろばが偉いのではないのです。

・・・・・・・・ イエス・キリストは借り物で栄光をあらわされる ・・・・・・・・主イエスは借りた水をワインに変え、借りた弁当で多くの人の空腹を満たし、借りた船から人々に語りかけ、借りた部屋で最後の晩餐を行い、借りた墓から復活し・・・・・・・・

わたしたちの価値はただ、主イエスが「借りてくださること」、用いて下さるということにあります。用いて下さる理由は何か。主イエスの召しに理由などないと思いそうですが、実は確たる理由があるのです。「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだ。」と主イエスは語りかけます。ともすればわたしたちは、自分が主イエスにとって役に立たない、必要とされない存在であり、ただ主の恵みを一方的に受けるだけの存在と考え、主の前にへりくだり、謙虚であろうとします。しかしそうであってはなりません。それは「主の選びの過小評価」であることに気づきましょう。わたしたちの弱さ、欠けは、もはや自分を卑下する理由にはなりません。なぜならそれこそまさに、主イエスが私たち自身を選び出し、用いて下さる理由だからです。ゆえにわたしたちは「自分の弱さ・自分の欠け」にとどまってよいのです。そのようなことはお構いなしに、そのような自分だからこそ主イエスが用いるのです。用いるということは、必要としているからです。ここにわたしたちの価値があり、喜びがあります。主イエスがわたしを、御自身にとって必要であると考え、ご自身の働きのために用いて下さる。これをわたしたちの喜びとして生きましょう。主が用いてくださることはわたしたちが生涯を歩む上での希望です。喜んで主イエスに用いられるために自分自身を差し出しましょう。

「ところでイエスさま、なんでわたしを選んだのでっか?」
「あんたがのろまやからや。はよ乗せんかいな」
「そ、そやかて・・・・・」
「ごちゃごちゃ言うてんと、とっとと背中貸し!」

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