札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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◆すべてご存知の方だから
「あなたがたの父は、願う前からあなたがたに必要なものをご存じなのだ」。
予めご存知ならば祈る必要なし、果報は寝て待て、という話になるでしょうか。確かに祈りが、単に神に対する自己主張や要求・請求の類に過ぎないならばそうかもしれません。そこで祈りとは、せいぜい気休め程度のものにしかならないでしょう。そして結果として要求が実らなければ、もはや祈りは意味を持たなくなってしまうことでしょう。しかし、主イエスは、「神はすべてご存じだから祈らなくて良い」、ではなく、「だから、こう祈りなさい」(9節)と教えられたのです。ついつい的外れになりやすい私たちの祈りについて基本的な姿勢が教えられています。このわたしを、その必要をすべてご存知でいてくださる、それほどわたしの一切を御手の内に包んでいてくださる、その信頼から祈りは始まるのです。
◆祈りと偶像
あるユダヤ教のラビの祈り。「主よ、戦争を終わらせたまえとは祈りません」という「祈り」なのです。それは戦争がいつまでも根絶されないことについての神への皮肉や批判ではなく、我々人間が神に祈るべき本当のことは何かを見つめいます。戦争を始めてしまうのは誰なのか、なんでも苦難や悲しみの原因を神に押し付けて、その神に解決を求めるのは正しい祈りと言えるのか。問題の原因が人間自身にあるということを弁え、問題の只中から平和への道筋を見出し、そこに取り組んでいくための力や知恵は、神が与えてくださっているのだから、それを正しく用いることのできる意志と決断を支えて下さい、とこのラビは祈るのです。
祈りは、決して「ご利益」のためではありません。祈りが「聴かれた」「聴かれない」と一喜一憂したり、神を測ろうとする人間の主観を神は常にはるかに超えて働いておられます。自分の願いに従わせられる神は、偶像にほかなりません。偶像は人間の願望や不安が作り出す虚像です。そこで人は自分を必要を満たしてくれる神のようなものを求めているに過ぎません。神が先にあるのではなく、人の思いが先立っているのです。人間が作った偶像は、当然人の願いを全部聞いてくれますので、一番ありそうに思え、だからこそ熱心に拝まれもするのでしょうが、その実は空虚そのものであり、実際は、人間を神へと向かわせるものではなく、どこまでもこの世の生活・欲望に向けさせ、そこに執着させるのです。
◆御心が行われますように
この箇所は「主の祈り」の原型です。「主の祈り」は、「主イエスが教えてくださった祈り」であり「主イエスご自身が祈られた祈り」ということです。主イエスは、ゲッセマネの園で「この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願い通りではなく、御心がなされますように」(マタイ26章39節)と祈られました。それは、ここで人々に教えられた祈りそのものです。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(10節)。そうして、自分の願いにしがみつき、地上にしがみつくように生きるのではなく、父である神の御心に自分を捧げ、委ね、それゆえに苦い杯という現実も受け取って生きていく者とされるのです。十字架の苦難と死の後、父なる神の「御心」は、復活において示されました。そこにわたしたちは神の真実さを見つめるのです。
「偶像礼拝とは、単に像を拝むということではなく、痛苦を避けつつ信じようとする自己執着のことです」(藤木正三)。自分の安心や安全だけを確保しよう願い、痛みを伴わない信仰、「損をしない程度の信仰」、それが偶像礼拝なのだ、とこの人は言いました。主イエスは、「自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と言われます。そこに欺きはありません。その先でこそ知り得る神の御心があり、感謝と讃美があるのです。
◆日毎にリセット
この祈りは、自己主張や単なる要求の祈りではなく、「御名が崇められますように」「御国が来ますように」「御心が行われますように」と、神が神としてその御業を行われること、そして、日用の糧も、あるいは赦しも、救いも、すべて神であるあなたからもたらされる恵みであるということを見つめて信頼する祈りです。神様を自分のもとへと手繰り寄せる祈りではなくて、自分というものを神である方へと位置づけなおす(リセットする)祈りです。自分というものにしがみついて固執してしまうところから、自分自身を神である方へと解放していく祈りです。主日礼拝や祈祷会ではもちろん、葬儀式でも結婚式でも、家庭においても、日毎の祈りとして与えられています。日毎に、この祈りによって自分自身を神の恵みに位置づけるのです。祈りにおいて、本当は何も迷う必要はありません。「こう祈りなさい」と教えてくださった主の祈りを心を込めて祈るものでありたいと思います。
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