札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■最も重要な掟
一人の律法学者が主イエスに尋ねました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」。何百とある掟を遵守することばかりに追われ、この社会は律法の根本精神を見失ってはいないか。そんな危機感が彼にはあったのかもしれません。主イエスは彼に答えました。「第1の掟はこれである。イスラエルよ、聞け。わたしたちの神である主は、唯一の主である。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第2の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
単純明解な答え、だからこそ疎かにされやすいものです。あなたの神である主を愛すること、そして隣人を自分自身のごとく愛すること、この二点を差し置いては、どんなに数々の掟を遵守しようとも空しいというのです。
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」と言われる時、わたしたちは皆、自分が普段どんなに神様のことを疎かにした生き方をしているかを告白しなければならないでしょう。そしてそこで気付かされるのは、すべてを尽くしてくださったのは、私たちではなく神様ご自身であるということです。
■「あなた」の神
「あなたの神である主」です。神は、顔も名前も知らない不特定多数の神ではなく、「あなたの神」として、あなたを知り、愛し、伴われる神であるということです。この神を愛するということは、神に愛された自分自身であることを感謝して生きることです。それは同時に、この神の愛を隣人にも認めて自分自身のごとく重んじる、大切にすることにつながります。そうして共に神に愛された命を感謝して生きることが求められているのです。
律法というものは、本来、人が神に愛された自らを感謝し、隣人と共に神に愛された命を生きていくための道筋です。しかし、いつしか人が人を管理し、束縛し、神の名をもって人を裁く、殺伐とした息苦しいものに仕立て直されてしまいました。主イエスご自身もまた、人々から律法によって裁かれ、十字架刑に処せられたのでした。けれども、実にその十字架の死を通して、主イエスは「隣人を自分のように愛する」という、まことの律法を体現されたのだと言えるでしょう。ご自分を憎み、裁いた者たちを、それでも主は自分自身のように愛し受け入れて下さった。こうして主は、私たちが、神によって愛された自分自身であることを感謝し、隣人と共に生きていくというまことの律法を生きていくものとへと新たに生かしてくださったのでした。
■あなたは神の国から遠くない
律法学者は、主イエスの言葉を聴き「先生、おっしゃる通りです」と原点を示された感動をもって答えました。ひょっとすると、彼は、主イエスがそう人々の前で言って下さることを心の中で期待していたのかもしれません。皆が数々の掟を負わされ、汲々となってしまっていることに疑問や危機感を覚えていた彼は、「神を愛し、隣人を愛する」ことこそ欠かすことのできない中心であり、これ抜きにどんな掟も意味がないということを、主イエスの口を通して確かめたい、と。そして、期待通りそう言って下さったことにほっとし、確信を得たのではないでしょうか。
そんな彼に主イエスは「あなたは、神の国から遠くない」と告げました。「あなたは既に神の国に入っている」とは言ってくださらなかったのはなぜでしょうか。それはきっと彼が主イエスの教えを「理解する」感動する」ことに留まらず、彼自身の生活の中で生きていくものとなることを求めているからでしょう。
マルコ10章で、金持ちの男が主イエスから、「あなたには欠けているものが一つある。行って持っているものをすべて売り払い貧しい人に施しなさい」と言われました。主イエスは彼を慈しんでそういったのですが、彼はすっかり落胆してその場から立ち去っていきました。主イエスにはこの律法学者が重なって見えたのではないでしょうか。「あなたは神の国から遠くない」、その言葉を律法学者はどう受け止めたでしょうか。主イエスは決して彼を否定し遠ざけているわけではありません。むしろ彼が律法の精神を心に留め、神によって愛された自分であることを喜び、それゆえに隣人を神に愛された自分と同じように認めて共に生きていくものとなることを強く願っておられるのです。
■神の国は、ほらそこに
主イエスは、「あなたは神の国から遠くないよ」と、彼がこれまでの様々なしがらみ、囚われから解放されて一歩踏み出すのを待っておられるのです。あるいは、「神の国はそこにあるのだよ」ということを気付かせようとしている言葉にも聞こえます。
日々の仕事の忙しさ、時間やお金の余裕のなさ、様々な事を理由としてしまい、重たくて踏み出せない、神の国の喜びを自ら遠ざけてしまっているような私たちがいます。そこに「あなたは神の国から遠くない」「神の国はほらそこにあるのだよ」と呼び掛け、待っていてくださる主なる羊飼いの声があります。新しい一週間がまた始まります。独り子を与えるほどにこのわたしを赦し愛して下さった神、一切を尽くしてこのわたしを御自身のものとして下さった神への感謝に強められ、たとえ、ぶれながらでも、迷いながらでも良い、隣人となる一歩を踏み出していきましょう。
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