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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■「まさか」ではなく「まさしく」
薄暗い部屋の中で語り合う弟子たちの真ん中にイエスご自身が現れました。弟子たちは「亡霊だ!」と思い込み恐れおののきました。いまの今まで「主は本当に復活した」「主は私にも現れて下さった」と互いに語り合っていたはずなのに。それは、彼らにとって、主イエスの復活がまだ「まさか」の出来事に留まっていたということでしょう。しかし、それが「まさか」ではなく、「まさしくわたしだ」ということを主イエスは示されました。「わたしの手と足を見なさい」(39節)。そこには十字架で釘打たれた傷跡があったでしょう。つまり、この人がイエスであることの決定的証拠です。その傷跡は、イエスが確かに十字架で死なれたことを証ししており、同時にイエスがその死から復活したことの疑いようのない証しでした。イエスの復活、それは肉体を伴った復活でした。つまり、「弟子たちの心の中に永遠に生き続ける」というような精神的な意味での復活ではないということです。言い換えれば、弟子たちのその時々の気分によって、生きていたり、はたまた死んだりするような気まぐれなものではないということです。自分が信じられる時には存在し、信じられない時には存在しない、そのような信じられるものだけを信じ、信じられる時だけ信じて、それを信仰というならば、それは誰でも出来ることでしょう。しかし、それは気まぐれで自分中心のものでしかありません。むしろ信仰とは、自分の思いや理解をはるかに越えた力によって捉えられていること、この力が私にとって恐怖ではなく愛であり、そこに信頼し自分を明け渡して生きることです。

■疑いようのない復活
イエスの手足を見た弟子たちは、「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がって」いました。その人がまさしく主イエスであるという疑いようのないその事実を受け止めることができません。自分が信じるとか信じないということを越えて、現に、こんなにはっきりと自分たちの真ん中におられるという事実を受け止められないのです。ここで大切だと思うのは、弟子たちがこの事実を受け止められるか否かではなく、主イエスが彼ら一人一人のことを受け止めてくださっているという事実です。わたしが主(の愛)を信じられるという時も、あるいは信じられないという時も、主はこんなにもはっきりと疑いなくわたしの人生の真ん中におられるのです。「平和があるように」、主イエスが言われる平和、それは主イエスが真ん中に立っておられるということその自体です。この方に見出され捕らえられている、そこに大きな慰めがあります。

■日常の中に
主イエスは、今度は、弟子たちの前で焼き魚を食べて見せました。ここで興味深いのは、主イエスは、ご自分の復活を証明するのに、皆が驚くような奇跡を起こして見せたのではなく、焼き魚を食べるという至って人間的で日常的なことをされたことです。このことは何を物語っているのでしょうか。それは、主イエスはどのようにしてこのわたしに出会っておられるかということです。奇跡的な体験を通してではなく、このわたしのごく日常的な光景の中で出会おうとされるということです。「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、わたしにしたのである」。この言葉を今年度のみ言葉にしました。私たちが些細に思い、時に風景の様に見過ごし、顧みることもない、その日常、その瞬間、実は私たちはそこで主イエスを前にしているのです。そこで「まさしくわたしだ」と呼び掛ける主との出会いがあるのではないでしょうか。

■罪の赦しを得させる悔い改め(47節)
弟子たちがこの日体験したことは「悔い改め」です。「悔い改め」、それは視点を変えること、あるいはそれまで表裏逆に来ていた服をぐるりと引っくり返されるようなことです。自分たちが理解し捉えるのではなく、主がこの私を知り、とらえていて下さるという視点の転換、そして特別な奇跡においてではなく、何気ない日常の中にこそ主との出会いはあるという視点の転換を彼らは体験しました。それらは、自分たちが主によって愛され、そして赦されているという体験に他なりませんでした。主を見捨て、逃げ出した自分、復活など「たわ言」(24:11)だと思い込んでいた自分。そうやって自分の都合、自分の思いに従い、囚われ、主に背き否み続けていた自分。そんな的外れだったこの自分を、しかし、主は見捨てず今日も出会って真ん中で平和を告げて下さっている。彼らの裏切りや頑なさを何一つ責めることなく、まるで初めからいたかのように共におられるのです。そこに自分たちへの主の真実な愛と赦しがあることを知ったのです。
そして、主イエスは、その彼らをこの世へと遣わします。あらゆる国の人々に主の死と復活を告げ知らせよ、人々に罪の赦しを得させる悔い改めを告げよと(46〜47節)。すなわち、主はあなたのことも愛し、赦し、あなたの人生の日々の真ん中にまさしく生きておられるのだという事実に、人々の心を向かわせよ、と。
主は今日、私たちにも、その手足を示しながら、私たちのすべてを担い、すべてを赦し受け入れて下さっていることを告げておられます。それは疑いようのないほど明瞭な現実なのです。復活節のこの時、私たちもこの現実へと視点を換えられ(悔い改め)ながら、主の平和の中を歩んでいきたいのです。

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