札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■アルファでありオメガである神
ステファノの殉教を引き金に、エルサレムではキリスト者に対する激しい迫害の嵐が吹き荒れ、「使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」(8:1)のでした。聖霊降臨によってイエスをキリストと信じる人々の群れが生まれ、ここから素晴らしい未来が開けていくのかと思えば、人間のねたみと怒りが渦巻く過酷な現実が待っていたのでした。一体、あの聖霊降臨の出来事は何であったのか、どこに聖霊の働きがあるのかと思ってしまいます。しかしながら、この迫害によるキリスト者の離散は、キリストの福音がエルサレムから外へ飛び出し、異邦人の地へと広がっていく重要な契機となったのでした。
「あなたがたの上に聖霊が下るとあなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土でわたしの証人となる」(使徒1:8)との言葉通り、キリストにおいて実現された神の祝福は、聖霊によってエルサレムを越え、また宗教的に長く対立し断交していたユダヤとサマリアの隔てをも越えていきました。人間の多くの思い煩い、計画というものを超えて、あるいはあらゆる隔て妨げをも越えて、主の聖霊は働いたのです。主イエスの十字架の死の絶望が、復活に続いていたように、主イエスの昇天は、聖霊降臨という出来事につながり、迫害の苦難は、異邦人世界への宣教に続いていきました。人の目に終わりと思えたものが、しかし主にあっては始まりなのです。
神は「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」(ヨハネ黙示録22:13)と告げられます。そして私たちも「主こそが、初めであり終わりである」と告白して生きるのです。人の思いが終止符を打つのではないのです。神はなおそこで「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」「かの日には、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(ヨハネ14章18節)と告げ、「私に留まれ、わたしもあなたに留まっている」(同15章)との約束をもってなおも導かれるのです。
■聖霊の働きとは
では、主は私たちをどこへと導こうとされるのでしょうか。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と教えられた主イエスは、そのためにぶどうの木として枝である私たちに留まって下さるのです。聖霊は「互いに愛し合う」という実りへと導くのです。聖霊は、キリスト教勢力拡大のためとか、不思議な奇跡を行うためではなく、あるいは、わたしたちが期待する方向へと上手く導いてくれる力でもなく、わたしたちが愛において終止符を打とうとするところで、なおもキリストという道を示し、赦され、愛された神の子であることを思い起こさせ、隣人を示し、愛する道に踏み出させていく力です。しかし、そのことを私たちはいかに見失いやすく、自分の思いに囚われてしまいやすいことでしょうか。4節以下に登場する魔術師シモンの物語はそのことを良く言い表しています。
■魔術師シモンの倒錯
魔術師シモンは、自分と同じ名を持つ「シモン」・ペトロの前にお金を持ってきて言いました。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください」。彼はお金、すなわち自分の力でそれが得られると考え、自分に対する人々の尊敬と注目を集めるために利用しようという欲望に駆られていました。彼の思考はすべて自分自身に方向づけられていました。彼は既に町の人々の「心を奪って」虜にしていましたが、実のところ彼自身が自分自身の虜となって全く閉ざされ不自由でした。彼が本当に求めるべきことは、自分の力で人に聖霊を与えることではなく、自分自身が聖霊の働きを受けて、イエス・キリストの道へと押し出されていくこと、すなわち、他者を愛するという道へと「出エジプト」して歩み出すことでした。そこに彼の自由があり、彼の新しい命があるのです。
■聖霊を受けなさい
主イエス・キリストは、聖霊において、ユダヤ・サマリアという隔てを越えて神の愛の現実とその祝福をもたらされました。それは迫害の中でもう駄目だと諦めかかっていた人々の思いを超えた業でした。その業が今日、私たちに続いています。主は、今日、最も大きな隔てといって良い私たちの自身の心、他者に対して愛することを諦め、力や富に拠り頼もうとする堅く閉ざした心の真ん中で、息を吹きかけて言われるのです。「聖霊を受けなさい」「わたしはあなたがたを遣わす」(ヨハネ福音書20:22)と。
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