札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■イエスの涙と憤り
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。マルタと同様にマリアは、ラザロの死を悔やんでイエスに訴えました。しかし、どんなに悔やんでもすべてが手遅れなのです。死は永久にラザロを奪い取ってしまった。彼が葬られた墓は大きな石で塞がれていました。それは死が全く揺るぎない現実であることを無情にも彼女たちに突き付けていたことでしょう。イエスは、姉妹や弔問客たちが皆泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮し、「どこに葬ったのか」といって涙を流しました。それは、主イエスが、彼女たちの悲しみに寄り添い、ご自身の悲しみとされたということであるでしょう。そして、心の底からこみ上げてくるイエスの憤りは、彼女たちを絶望に陥れている死そのものに向けられています。イエスは、ここで死の力と激しく対峙するのです。
■ラザロの復活とイエスの死
ラザロの死と復活の物語ですが、45節以下には、ユダヤ教の最高法院がラザロの復活をきっかけとしてイエス逮捕の陰謀を画策したことが語られています。ファリサイ派と祭司長たちは、ラザロの復活によって高揚する民衆たちの「イエスこそ王だ、メシアだ」とする騒ぎが、これ以上拡大することを危惧しました。もし、この動きがローマ当局によって皇帝への反逆として捉えられたら、圧倒的な軍事力によってユダヤ社会は根底から破壊されてしまうかもしれない。しかし、大祭司カイアファはこれを好機と考え、イエスを逮捕し、ローマ帝国への反逆者としてその身柄を当局に突き出して亡き者にしようと提案したのでした。
ヨハネによる福音書は、ラザロの物語をイエスの十字架の死に直結する出来事として描いています。ラザロが死から甦った、それゆえにイエスが十字架に上げられることになったという構図です。ラザロは甦りそれゆえイエスが死んだ。ここには「命の交換」というべき出来事が始まっているのです。すなわち、ラザロの復活においてイエスの十字架の出来事の意味が物語られているといえるのです。一体、イエスの十字架の死は、わたしたちに何をもたらしたのか、その意味が語られている。すなわち、神がその独り子の命をもって、愛する者を死の支配、死の闇から解き放たれたということ、死を打ち破り、愛する者を一人も滅ぼさず、とこしえに生かそうとされる神の真実です。イエスが涙を流し、激しく憤って「どこに葬ったのか」と言われた時、そこに熱情の神ご自身の愛が表れているのです。
■見よ、その愛を
人々は言いました。「ご覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」。「御覧なさい」とありますが、ここは「見よ(視よ)」と訳した方が良いのではないかと思います。といいますのも、ヨハネによる福音書の中で、洗礼者ヨハネは、主イエスを指し示して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」といい、またポンテオ・ピラトは、茨の冠をかぶせられ、鞭打たれ、変わり果てた姿のイエスを群衆の前に立たせて「見よ、この男だ」と言いました。まるでエルサレム神殿の屠り場に引かれる小羊のように無力な姿のイエス、しかし、まさにこの方こそ、神が世の罪を取り除くために備えてくださった一匹の犠牲の小羊であるということを、「心の目を刮目して、見よ!」と強く示しているのです。この人にこそ、あなたの救いがある、あなたの命の光がある!と。そして、ここにもう一つの「見よ」との呼びかけがあるのです。「見よ、この方はどれほどラザロを愛しておられたか」。それは、「死をも打ち破るその愛を、見よ」というのです。
■ラザロ、出てきなさい!
墓の中に、死の現実のただ中に、それを破り解き放つイエスの声が響きました。その声は、死を嘆きすっかり絶望に陥っている人々の心にも響きました。すると、「死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出てきた」(44節)。福音書は、「ラザロ」という固有名詞ではなく、「死んでいた人が」と一般化して語っています。これはラザロのことであり、同時にあなたのことでもあるのだ、と。わたしたちが今日、死のただなかに立ってくださったキリストのゆえに、死の支配から解放されているということ、死に対する絶望や恐れや諦めから解放されているということを示しています。
甦ったラザロは、やがてもう一度死の時を迎えることになったはずです。その時、ラザロは、自分が自分自身の内には光を持たない無力な人間であるとしても、主の愛の光に照らされ、とこしえに見いだされている平安を胸に世を去っていったことでしょう。
神の愛が、私たちの生においても死においても全うされていること、その事実を信仰の目を開いて見る時、その人は新たに生まれ始めている、もう一人のラザロであり、もう一人マルタとマリアなのです。
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