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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■他人は救っても、自分は救えない
有無を言わさず、主イエスの十字架を共に担わせられたシモン。主イエスがよろめく度に、シモンも一緒によろめいたでしょう。周囲の人々が浴びせる罵声が、シモンにはまるで自分に向けられた言葉のように思えたでしょう。こうしてシモンは主イエスの受けた辱めの一部を、身をもって体験することとなったのでした。
囚人バラバは思いがけない形で釈放されました。それは主イエスが彼の身代り、贖いとなられたことを意味しています。それならば、シモンが十字架を一緒に背負ったことは何を意味しているでしょうか。それは、主イエスによって贖われた者の、新しい生き方です。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16章24節)との主の言葉がこの場面で響きます。主によって贖われたこの私の新しい生き方、それは「自分を捨て、自分の十字架を背負って主イエスに従う」という生き方です。それはもう少し具体的にどういう事でしょうか。その答えは、ここで主イエスのことを容赦なく嘲る人々の言葉の中にあります。人々は言いました。42節「他人は救ったのに、自分は救えない」。この嘲りの言葉は、意図せず主イエスという方について言い当てています。主イエスは、まさしく他人を救って、自分を救おうとはされなかったのです。
主イエスは荒れ野でサタンの誘惑を退けました。サタンは自己満足・自己実現・自己保身へと繰り返し主イエスを誘いました。「神の子ならば、この石をパンに変えて食べたらいいじゃないか?」「神の子の力を、他人のためでなく自分のために使ったら良いではないか?」と。しかし、主イエスは、自分の腹を満たし自分を救う道を選ばず、むしろ僅かなパンを皆で分かち合う喜びの道を選びました。再びサタンは、嘲る人々の口を通して主イエスを試みました。「神の子ならば十字架から降りてみよ、自分を救ってみよ」「神の子ならば、自分が神に愛されているという証拠を見せてみろ」と。しかし、主イエスは、自分を満たすために神の子の力を用いることを最後までされず、自分のためではなく、ただ人々のために用いて下さった。「他人は救ったのに、自分は救わない」。ここにイエスという方が言い表されており、また主に贖われ生かされた私たちの新たな生き方があります。今日、主は私たちに呼び掛けます。「あなたの十字架を背負ってついて来なさい」。「あなたが負うべき十字架があるのだよ」と。

■人に対してではなく、主に対して
しかし、私たちはどうも二の足を踏んでばかり。主に愛され、生かされた自分の生活において主イエスに従っていくと言われても、「自分を捨て、他者のために仕えるなんて無理だ」「どこから始めたら良いのかきっかけが見つからない」「自分のようなものはかえって控えておいた方が良いのではないか」「今ではない」「自分は相応しくないのではないか「自分の働きなどあまりに小さくなんの意味もないのではないか」と様々に恐れ、臆し、結局、旧態依然としてしまう。まさにそこで悪魔の言葉巧みな誘惑が働いているかのように、立ち止まってしまう。主イエスの招きが聴こえなくなってしまうのです。この一年、礼拝の終わりの派遣と祝福において、コロサイの信徒への手紙の一節を告げて参りました。「何事においても人に対してではなく、主に対してするように心から行いなさい」。この言葉を聞く度に、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)、との主イエスの言葉が響いてくるのです。
もしかすると、わたしたちは他者との関わりの中で、主を蔑ろにし、服をはぎとり、茨の冠を被せ、葦の棒を持たせ、唾を吐きかけることをしていないか。今日の主イエスの受難の場面を読んで、「なんと痛ましいことか!なんと愚かしいことか!」と思う反面、実はその自分自身が、他者との関わりの中で、ついつい主に対し同じ態度を取ってきたのではないかと気付きを促されます。しかし、主イエスはこの時、人々の責めをなに一つ咎め追及することなく、終始黙ってその現実を担ってくださいました。私たちについても同じです。すべてを引き受けながら、わたしたちが生きるべき自分を新たに生きていくことが求められています。

■生きるべき新しい自分を生き始めるために
バラバ、シモンに続けて、聖書は十字架につけられた二人の強盗の姿を描きます。彼らはこの時、世界に証しすることになったのです。主イエスがこうしてわたしたち罪人たちの真ん中に立ってくださったということ、そして十字架で古い私自身を担って死んで下さったということを。バラバも、シモンも、そして二人の強盗も、皆初めは主イエスと何の関係もなかった人々ですが、主イエスによって決定的に関係づけられたのです。そして、私たちも今日、そのようにして関係づけられている一人です。主の方から「そのあなたこそ関係があるのだ」「わたしがあなたを選んだのだ」と近づき、今日、わたしたちの真ん中におられます。わたしたちが生きるべき神の子としての自分を、その喜びと幸いを生き始めていくために。

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