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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■「時は満ち神の国は近づいた」(マルコ1:15)
主イエスが告げた神の国とはいかなるものでしょう。それは理想郷や楽園のようなものでしょうか。楽園の中で何不自由なく過ごしていたアダムとエバ。彼らがその楽園を失ってしまうことになったのは、神の命に背いたからでした。神に従い得なかった時、アダムは神に名を呼ばれても姿を現すことができず怯えて木陰に隠れていました。この物語から考えさせられることは、楽園がまことに楽園であるのは、何不自由なく過ごせることではなく、神との交わりに生きることなのだということです。
主イエスが告げた「神の国」。それは人間が飾り立てた理想郷ではなく、神がその愛をもって支配している世界です。神の愛に、すべての命が受け入れられ満たされている世界です。怯えながら隠れながらではなく、神を喜びとし、また自分自身を喜びとできる世界です。

■新しい天と地
ペトロの手紙は言います。「わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地を、待ち望んでいるのです」(Uペトロ3:13)。
ここでは「見よ、わたしは、新しい天と地を創造する」(イザヤ書65章)との約束が思い起こされています。神の義が宿る天地。もはや涙は拭われ、死も嘆きもない天地(黙示録21章)。この世界を見ている限り、一体どこに神の義や愛の宿る余地があるのか、ただ人間の不義と罪が支配している世界のようです。しかし、その只中で時は満ち、機は熟し、神の国は始まっているのだということが、キリストの降誕に示されています。
キリストがこの世に宿られ、天使の群勢が「天には栄光、地には平和」と歌った出来事は、まさしく「神の義の宿る新しい天と新しい地」の始まりを告げる出来事です。それは決して後戻りすることも覆されることもない神の業として今日に続いています。その御業の中で、わたしたちは「御国をきたらせたまえ」と祈ることを教えられているのです。

■「千年は一日、一日は千年」?
なぞなぞのようですが、要するに神様の御業は、時間概念で捉えることなどできないということです。いくら人間が神の国の完成を「遅い」と待ちくたびれたところで、神様にとってそれは一日のようであり、反対に「それは明日かもしれない」と騒いだところで、神様にとってそれは千年のようである、と。つまり、すべてはあなたたちが決めることではなく、神の御業であるということ、「その日その時をただ神が知る」ということです。それは「来るときには来る」としか言えません。「神はすべてを時宜に適うように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」(コヘレトの言葉3章)とある通りです。そこで私たちのなすべきは、未来のことを思い煩うことでも、いますべきことを未来に先延ばすことでも、過去の自分にとどまることでもなく、今ここで神があなたを愛する神であるという恵みを受け止め、この日この時を目を覚まし、落ち着きをもって生きることです。
また、なんとなく目先のお金や名誉や、目先の生き甲斐といった目標を立てながら進んでいくのではなくて、たとえどんな道を選び進むことになっても、常に神様という視点から自分とこの世界を見つめ、神様に愛され、生かされ、用いられる自分を生きていくことです。

■愛は忍ぶ
「主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(9節)。「そんなこと言っていたら、いつまでも神の国は完成しない」「そんなのは終末が来ないことへの苦しい弁解、人間への責任転嫁だ」と言って読み捨てて良い言葉ではありません。
「時は満ち神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。この主イエスの第一声は、わたしたちにとって、この世にとって最も重たい言葉です。教会は洗礼と聖餐を、主の命じられたものとして重んじていますが、まずもって、主イエスが開口一番「悔い改めて福音を信じなさい」と命じておられることを忘れてはなりません。一人ひとりが神様に向き直り、イエス・キリストという神の愛を、福音として内に宿すこと。これこそ教会にとって、いやこの世全体にとってのまことの聖礼典であり、神様はその日を待ち望み、限りなく忍耐しつつ、日々呼び掛け働き続けておられます。限りない忍耐に伴う限りない愛を思います。

■何のために生き、どこへ向かうのか
飼い葉桶に眠る嬰児の姿を通して、わたしたちもまた、赤ん坊として生まれた自分の人生の最初へと連れ戻されます。そこで「あなたは一体何者であるのか」、「これまで懸命生きてきたのは何のためか」、「これからあなたはどこへ向かうのか」と問われている思いがします。わたしたちはそれが見いだせなくなる時が必ずあります。いかに目先に囚われ、時に囚われて生きてきたかと思い知らされ愕然とします。しかし、そこで焦る必要も、諦めてしまう必要もありません。主が焦らず諦めず伴い続けておられるのです。ただ主は、あなたが愛されてきたこと、赦されてきたこと、そしてあなたをも御業のために確かに用いて下さったと知ることを願っておられます。その時、主イエスが最初に告げた「時は満ち、神の国は近づいた」との言葉は、はるか昔の言葉としてではなく、あなたの命の中に生きた言葉として響き渡り、あなたを新しい天と地へと導くのです。

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