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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■9章の伏線
前章(9章)には、生まれつき目の見えない人が主イエスによって癒されるという物語があります。彼は目を癒され見えるようになりましたが、彼にとっての人生のまことの「光」となったのは、自分という存在が主にどんなに深く愛されているかという目には見えない事実でありました。この愛に捉えられた時こそが彼のまことの癒しでありました。この物語は、先週読んだトマスの物語とも重なります。「十字架の傷跡をこの目で見、この手で触れてみなければ信じられないではないか」と思っていたトマス。しかし、復活の主イエスを前にし、この方が自分に呼びかける言葉を聞いたとき、彼は「わたしの主、わたしの神よ」と告白したのでした。それはトマスにとって、自分がこの方によって、今日愛され、赦されているという事実に触れた出来事でした。自分の目で見て、頭で納得するということはもはや問題ではなかったのです。トマスもまた、自分がただこの方の愛によって存在するという見えない事実を見るものとなったのです。
肉眼では見えない主の愛に掴まえられ、肉の耳では聞こえない主の呼び掛けが内に響く、信仰とは人生における最大の「事件」であります。

■声を聴き分ける羊
「羊はその声を聞き分ける」「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」(3節)「羊はその声を知っているのでついていく」(4節)と言われています。羊たちは紐でつなぎ止められているわけではありません。それなのに羊たちが羊飼いについていくのは、自分の名前が呼ばれるからでもなく、羊飼いの姿を見るからでもなく、その声を聞き分けるからです
復活の主イエスは、扉を閉ざし家の中にいた弟子たちの真ん中で、「あなたがたに平和があるように」との言葉を告げました。そして、彼らに十字架の傷跡を見せました。それはご自身の言葉が、幻などではなく「肉となって彼らの間に宿っている」(ヨハネ1:14)ということを証しするものでした。弟子たちは、「平和!」と告げる主の言葉が、自分たちの中に肉となって宿り、生きて働いていることに触れ、立ちあがっていったのです。私たちも同じです。伝道者パウロは言いました。「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)と。今日も羊飼いなる復活の主の呼び掛ける声が、あなたの真ん中に告げられています。その言葉は幻ではなく、肉となって宿っているのです。人の命令や噂や評判や、社会の流行や要求、そうした数々の紐によってつなぎ止められて、心を暗く、重く、狭く、不自由にしてしまうのではなく、主の言葉を内に宿し、主の言葉によって聞き分けて歩んでいくのです。課題に直面する時、恐れ不安に塞がれる時、既に真ん中に立っておられる主の平和を信じ、この方の言葉の中に身をおいて一歩を踏み出していくのです。たとえ死の谷の陰を歩む時も、苦しめるものを前にしても、そこでも羊飼いなる主の声があるのです。

■今日も命を献げ続けるキリスト
「わたしは良い羊飼いである」主イエスは、良い羊飼いの中の一人ではなく、イエスこそが良い羊飼いです。「わたしが良い羊飼いである」と言われるのです。羊たちに素晴らしい環境を提供してくれるからではありません。ただ「羊のために命を捨てる」という一点において「良い」のです。キリストという羊飼いが羊のために自分の命を捨てるのは、主イエス・キリストにとって、私たちの命が、ご自分の命そのものであるということです。
君主の命令で戦地へと送られ、君主のために自分の命を捨てるということが歴史上、そして今この時も繰り返されています。君主のために死ぬことは、何よりの名誉だと吹き込まれ、そう信じながら死んでいった人々が大勢いるのです。しかし、わたしたちの主は逆です。羊飼いが自分の羊たちを守るために命を捨てる、キリストが人間のために十字架で命を捨てるのです。しかも、その羊たちに対する愛は、死によってあっけなく無くなってしまう限りある愛ではなく、死という絶対的な脅威をも克服する愛なのです。そのような限りなき愛をもって、どこまでも羊のために命を捧げ続けるのです。
キリストは、今日もご自身を捧げ続けておられます。何度も十字架に架かって死なれるという意味ではありません。羊のために自分の命を捨てるその愛が、死さえも越えて今日私たちの間に注がれているのだということです。この羊飼いの声が、今日、私たちのただ中に告げられているのです。どんな先が見えない恐れの時も、悩みの時も、悲しみの時も、「あなたに平和」そう告げる主の言葉が私たちの真ん中にあり、私たちを守り導くのです。「わたしはある」と言われるこの方の言葉によってこそ、私たちは生きるのです。

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