札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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◆聖霊降臨日
復活し昇天されたイエス・キリストは、ユダヤ教の五旬祭(ペンテコステ)の日、かねてより約束しておられた聖霊を人々に与えられました。聖霊を受けた人々は、様々な国の言葉で神の偉大な業を語りだし、弟子たちは恐れの中から立ち上がって、大胆に復活のキリストを宣べ伝え始めました。この福音はユダヤ人のみならず、異邦人にも、民族や身分といった隔てを超えて風のように自由に、ダイナミックに広がっていき、やがてイエスをキリストと信じ従う教会が生み出されていきました。この風のように自由な聖霊は、時代を超えて今日もこのわたしたちを導くのです。
洗礼式は、「水と霊によって新たに生まれる」ということを象徴しています。水が注がれると共に、そこに聖霊が注がれている、いわば聖霊降臨の出来事です。今ここに、この人が聖霊を受け、すなわち父なる神と子なるキリストの霊を受けて、神の子として、この霊の導きに従いながら私たちと共に歩むものとされた、その事実を見つめるのです。
◆霊の導きに従って歩む
今日の聖書箇所でパウロは、繰り返し「霊の導きに従って歩む」よう求めています。霊の導きによって歩むとはどういうことでしょうか。主イエスは言われました。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆その通りである」(ヨハネ3:8)。たんぽぽの綿毛が風に吹かれて散らされて、それぞれの地で花を咲かせるように、私たちは聖霊の風に身を委ねて生きる者として招かれています。けれど、それは決して自分では何も考えずに、抵抗せず、ひたすら受け身的に流れに任せ、ふわふわ漂うということではありません。ただ流れに身を任せるという態度は、実際には、霊の導きではなくて、ただ自分の思いや打算に従っているだけであったり、周囲に流されているだけのことであったりもし得るからです。
◆聖霊降臨日−自由の始まりの日−
パウロは、「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」(13節)と「キリスト者の自由」を強く自覚させています。ここで言う自由とは、一つは、「律法からの自由」です。割礼を受けなければ、律法を正しく守り行わなければ、決して神の子としては認められない、というような不自由で偏狭な伝統(条件や資格)から解放されて、だれでもキリストを信じること、すなわち、このわたしのためにその命さえ捧げられたキリストの愛を信じることによってこそ、まことに神の子として生きるものとされる、ということです。当時においては極めてリベラルな思想です。しかし、リベラルであるがゆえの危うさについてもパウロは忠告します。すなわち、この自由をはき違えて、肉に罪を犯させる機会としてはならない、と(13節)。律法や割礼といった外的なものに束縛されない自由を持っているだけでなく、その人は、自分自身の思いにも縛られることのない内的な自由を生きることが重要だというのです。
霊に導かれて歩むということは、その都度「これはまことに主の御心であるだろうか」と自覚的に吟味することと切り離せません。そこでは葛藤が生まれ、自分の利己的な部分が現れ、自分が他者との関係において作り出している隔てやわだかまりに気づかされます。何度も自分の愛の狭さ、小ささ、浅さ、不自由さに直面させられます。しかし、そこで、わたしたちは自分を嘆くだけではなく、この私を良しとされる神の愛の広さ、大きさ、深さに出会わされているのです。この愛に支えられ促されて、一つひとつ克服していこうとする、そんな自由のための闘いの連続です。それを総じて「信仰生活」というのではないでしょうか。「あなたがたはその自由のために召し出されたのです」とパウロは言うのです。聖霊降臨日、それは教会の誕生日」「伝道の始まりの日」と言われますが、それは「自由の始まりの日」であると申したいと思います。
◆隔てを越えて
聖書には、聖霊が風のように自由に、民族も身分も隔てを乗り越えて、あるいは人間の頑なな心を打破して働いていったことが証しされています。この霊の導きに従って歩むということは、この私自身が隔ての先へ導かれていく、踏み込んでいくということです。
今、世界で起こっている分断と対立の現実については枚挙にいとまがありません。その分断によって生み出される力による恐怖と悲劇の現実に、わたしたちは自らの無力を痛感し呆然としてしまいそうです。諦めや臆病や無関心に支配されそうです。しかし、このような隔てや分断だらけの現実の中にあって、聖霊降臨日を迎えていることの意味を深く見つめたいと思います。隔てによって遠く、見えなくされている人々の痛みを、私たちは想像すること、祈ること、それもまた確かに、隔てを越えていく聖霊の自由な働きではないでしょうか。「神は、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」(二テモテ 1:7)。人間に過ぎない権力者の横暴を恐れるのではなく、すべての命を造り、愛される神をこそ恐れ、そして、すべての命に低みに立って仕えられたキリストの霊を受けて歩むものとしての思慮と行動を選び取るものでありたいと思います。
◆霊の結ぶ実は愛
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」。確かに、これらは人からも禁じられ、妨げられ、あるいは強制される性質のものでもありません。いずれもその人が聖霊に導かれ自由へと召されている者であることの発露です。聖霊降臨日の今日、私たち一人ひとりがこの時代、この地の中でキリスト者として召されたことの意味を改めて受け止め、自由へと、そして、互いに愛によって仕えあう交わりを生きていくものでありたいと願います。
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