札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■5,000人の給食
受難節に入ります(イースターは3月31日)。キリストの苦難に思いを馳せ、この世の闇、人間の罪を見つめて神への愛、隣人への愛へと向き直していく時です。この時、「五千人の給食」の物語が示されています。マルコによる福音書の並行箇所を見てみますと、この奇跡物語は、ガリラヤ地方の支配者ヘロデ・アンティパスが、自らの誕生日の祝宴の余興として、洗礼者ヨハネの首を刎ねるという理不尽な物語に続けて5千人の給食の物語が語られています。権力者が一人の人間の命を弄んだ豪華なメニューが並ぶパーティと、それとは対照的な、弱者である民衆が二匹の魚と五つのパンという粗末なメニューを分かち合い、しかし、それによって誰一人もれなく満腹し、喜び合ったという祝宴。そこには誰一人見捨てない、見捨てられない天の祝宴の光景が現われていました。
ヨハネ福音書の方を見てみましょう。大群衆を前に、弟子のフィリポは「200デナリオンのお金があったとしても、とても満腹にはならないでしょう」と答え、またペトロは、「大麦のパン5つと魚二匹を持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と言いました。彼らは内心思ったのです。「残念だが、この人たちのことは見捨てざるを得ない…」。
しかし、主イエスは少年の持っていた魚とパンを神に感謝し、人々に分け与えた。沢山余るほど皆が満腹した。人間の想定を覆す結果になりました。皆が満腹した時、主イエスは言いました。「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」。ヨハネ福音書3章16節には「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。この「一人も滅びないで」と訳されている言葉と、「少しも無駄にならないように」と訳されている言葉は、元のギリシャ語では同じ言葉です。
■一人も滅びないように
残ったパン屑は、それは何を表しているでしょうか。一つは、皆が食べきれないほど満たされた、誰一人こぼれ落ちるものはいなかったという事実です。そこには、「一人も滅びないで永遠の命を得るために」と独り子を世に与えられた神の願い、神の愛が現わされています。パン屑を集めると12の籠に一杯になった。12とは「完全」を意味します。そうであればこのパン屑は、神のすべての民への「完全な愛」を表わしているのです。
最近、ある評論家が「祖国のために戦えますか?」との発言を投稿したことが物議を醸しました。言っていることは「お国のために死ねるか?」とほぼ同じです。これに対し、「そう言う人ほど自分は安全な所にいて、真っ先に逃げ出すのだ」といった批判の声が上がっています。戦争は、どう美化して語ろうと結局は、命というものを国の都合のためにモノや道具としてしまうことです。あるいは、先日、地下鉄東西線に乗っておりましたら、一つ先に発車した電車で人身事故が発生し、それによって多くの人の移動に影響が及びました。ネットニュースのコメント欄には、「死にたいのなら一人で死んでくれ。世間に迷惑を懸けることだけはやめて欲しい」。そんな声が飛び交っていました。国の都合のために死んで来いという現実、世間の都合のために一人で死んでくれと言い放つ現実、どこまでも傍観者に終始する無責任な現実があります。
大祭司カイアファが最高法院の席でこう言いました。「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、好都合ではないか」(11章50節)。そうして、イエスは国民の都合、権力者の都合のためにスケープゴートとされました。主イエスが十字架に架けられ、そこで世の罪を担われたということ。それは、言い換えれば主イエスが、世の罪を、世の痛みをご自身の問題とされた、当事者として担われたということです。38年病で横たわっていた者の現実に寄り添い、「床を担げ」と彼を束縛する現実から解放したのでした。そのために主イエスに対する迫害が始まり、そして十字架に至ったのです。そのようにして、どこまでも自らの身にこの現実を負って下さった。まさに「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」のです。
■その籠を託されている私たち
その主が言われます。「少しも無駄にならないように、残ったパン屑を集めよ」。その場にいないすべての人々に神の愛が及ぶように、一人も滅びないよう、神の愛を無駄にしないよう、人々にその籠を託しているのです。この物語を読む私たちが、今日、その愛を託されているのです。
「一体、この私に何ができるのか?」と思うかもしれません。しかし、ここで用いられたのは、一人の少年であったということを思いたい。わざわざ「少年」と記したのは、その存在が取るに足らないと見なされていたということでしょう。しかし、その少年こそ必要として用いられたのです。そしてそこにこそ、神の国の祝宴の光景は表されるのです。
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