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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■「あずましくない」
マタイとルカ、それぞれに独自の降誕物語が記されています。それらの物語を通して、すべての人々に対する良き知らせ、神の愛が慰め豊かに物語られています。ところが、マタイによる福音書は、東方の学者たちが帰っていった後、主の天使が夢でヨセフに現れて「エジプトに逃げよ、ヘロデ王がこの子を探して殺そうとしている」と告げ、ヨセフは幼子と産後間もないマリアを連れて、夜逃げするようにエジプトという言葉も分からず、頼る人もいない土地へ逃避行を始めたのでした。主イエスは、生まれて間もなく難民、亡命者となったのでした。実に「あずましくない」。

■不都合な現実
ヘロデ大王は、東方の学者からユダヤ人の王が新たに出現したということを聞き、すっかり不安と狂気にかられ、ベツレヘムと周辺にいる2歳以下の男児を虐殺しました。イエスの誕生によって、大勢の罪なき子どもたちの命が奪われたのです。
「ラマで声が聴こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子どもたちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子どもたちがもういないから」。母親たちの慟哭が聴こえてくるようです。この箇所を読んだ途端、降誕物語の温かな雰囲気は失われ、この世の悲惨、その暗さ、冷たさが支配するようです。美しく温かな降誕物語も、ラストシーンがこれではすべて台無しです。園児たちのページェントのラストシーンがこれであってよいはずがありません。これでは悲しすぎる。都合が悪すぎる。けれども、聖書は、この不都合な、全くあずましくない話を避けるのではなく、オブラートで包んだ表現をするでもなくそのままに伝えます。「この世界が決して都合よくは出来ていないのだ」「人間の罪と暴力、払拭されない痛みと悲しみに満ちているのだ」「この現実にイエスはやって来られたのだ」とを示します。

■インマヌエル −ナザレの人として―
ユダヤを逃れエジプトへ。ヘロデが死んだのでエジプトから帰って来たけれど、別の者が跡を継いでユダヤを支配しておりそこに行くことを恐れて、ガリラヤのナザレへと向かった。それは現在のシリアの情勢と重なるようです。600万人といわれる大勢の難民、自国に帰ろうとしているけれど、果たしてそこに平和はあるのか、また別の支配が訪れるのではないか。イエスが「ナザレ」に逃れて、そこに生きたということはこの世界の現実を象徴的に物語っています。
今年度のクリスマスは「平和を祈ろう」とのテーマを設定しました。しかし、その祈りを嘲笑うかのような罪の力が覆っています。新しい年を迎え、「今年こそは平和に近づきますように」と祈り願います。しかし、その祈り願いが空しく消されてしまうような思いを一体なんど重ねてきたことでしょう。世界情勢だけでなく、一人ひとりの人生を見ても、「あずましくない」現実があり、不安で憂鬱な気持ちで新しい年を迎えている人という人が世の中にどれほどいるでしょう。
主イエスは、この現実の中にお生まれになりました。多くの子どもたちが死んだ、その悲しみ、無念をその小さな体に負うものとなりました。主イエスは十字架の上で初めて罪を背負ったのではありません。生まれながらにして、人間の罪と悲しみをその身に負う方であったのです。「ナザレの人」として生き、十字架に死なれ、そして復活された、そのようにして、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」という見えない事実をその身をもって表したのです。それは、人々が自分自身を神に愛された者として知り、この愛によって自らと他者を肯定し、悲しみと憎しみを乗り越えて平和を作り出していく一人ひとりとなるためです。

■「クリスマス」を始めよう
教会の暦では、クリスマスは明日の公現日までとされています。しかし、「平和を祈ろうクリスマス」は、明日で終わりではなく、ここから始まりです。わたしたちにとっては、毎週がクリスマス(キリスト礼拝)です。私たちは、あの東方の学者たちが権力や名声や富を求めるヘロデのもとに帰る道ではなく、別の道を通って帰っていったように、クリスマスを捧げ、黄金、乳香、没薬はなくとも、この身と心を主のまぶねとして捧げ、主を宿し、また隣人を心に宿し、平和を作り出していく一人ひとりになっていきましょう。本当に「あずましい」と言える神の国を求めて。

■主の年2025
2025年が始まりました。これは神が造り、伴い導いてくださる年であるからこそ、「主の年」です。古い年が過ぎ去ったのと共に、わたしたちも古い自分を脱ぎ捨てて、み言葉によって新たに生きていく時です。あの「蛇の誘惑」のように、私たちを自分中心の生き方へといざなう言葉があふれています。しかし、「蛇のように賢く」とも聖書は言います。光であるキリストを宿しつつ、赦された愛された神の子としての生き方を選び取っていきましょう。

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