札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■蚊帳の外
エチオピアの宦官の洗礼の物語です。彼は「エルサレムに礼拝にて、帰る途中であった」(28節)とありますが、実際にエルサレムで礼拝する会衆の中に加わったとは考えにくいでしょう。彼は異邦人であり、更に去勢された宦官でした。エルサレム神殿の外垣には、「異邦人はこれより中に入るべからず。これを犯したものは死刑に処す」という禁令が記されていました。また、律法では「性器を切除されたものは主の会衆に加えることはできない」と定められていました。このように彼が礼拝に参加することは二重の意味で不可能であったはずです。帰り道、彼は、馬車に揺られながら一人イザヤ書を朗読していました。彼はそれを朗読できる知識を持っていましたが、そこに書かれた内容の意味については、さっぱり理解できなかったのでした。エルサレムで礼拝に加わることが許されなかったように、この書物が語っている神の恵みの中に入れなかったということを象徴的に表していると言えます。「自分はどこまでも蚊帳の外なのだ」という空しさが彼を覆っていました。
■捨てる神あれば、拾い用いる神あり
彼が朗読していたのはイザヤ書の53章でした。「彼は羊のように屠り場に連れて行かれた。毛を刈る者の前で黙している小羊のように口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ」。宦官は “彼”とは一体誰のことであるかとフィリポに尋ねました。誰からも顧みられず、見捨てられ、傷つけられ、地上から絶たれてしまう、神の民イスラエルの共同体の中から悲惨な仕方で取り除かれてしまう、もしかすると宦官はこの悲惨な人に自分自身を重ねて読んだのかもしれません。
そこでフィリポは彼にイエスのことを伝えたのです。神が、罪と死に囚われていた人間をご自身のものとして取り戻すために、イエスを犠牲として十字架に挙げられたのだということ、イエス・キリストこそ、わたしたちの罪をすべてその身に負って死なれたのだということ、神はこのイエスを復活させ、すべてのものの主として立てられたのだということ、この方こそ「人々によって捨てられたが、建物の土台に不可欠な隅の親石」となったのだと。そしてこの方は、今日も生き、聖霊によって自由に働き、主なる方として愛する者を尋ね、共に生き、導かれるのだ、と。自分がここに現れたのもまさに、主イエスが働いておられることの証拠だ、と。
このように福音を伝えたフィリポですが、彼もまたエルサレムでの迫害から逃がれてきた、その意味で“捨てられた石”でした。けれどもそのような石を神は拾い、ご自身の御業のために欠かせないものとして用いて下さっているのだと思わされていたのではないでしょうか。そして、同じくこのエチオピア人も、ユダヤ人からは「お前など蚊帳の外だ」とされた“捨てられた石”だけれども、神はこの人をも御業のために欠かせない石として用いられるのだと思ったのではないでしょうか。そして、これは私たち自身の話でもあるのです。
■神の決心を妨げるものはない
フィリポは少し先のイザヤ書56章についても説き明かしたのではないかと想像します。「主のもとに集ってきた異邦人は言うな。主はご自分の民とわたしを区別される、と。宦官も言うな。見よ、わたしは枯れ木にすぎないと。」「なぜなら、主はこう言われる。わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることはない」(56章3 -5節)。
異邦人よ、宦官よ、あなたにもまたとこしえの名が与えられる、天にあなたの名も記されている。永遠に刻まれている。イエス・キリストによって実現したこの真の喜びを知らされた時、宦官は言うのです。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」。彼のこの言葉は、神の愛には何の妨げもないのだという信仰告白と言えるでしょう。
わたしたちにとって洗礼を受け、キリスト者となるということ、それは時にいろいろな支障がありうる中で、大きな葛藤の伴うこと、一大決心のいることのように思われるかもしれませんが、それは本当は僅かなことでしかありません。なぜなら、洗礼には、自分の決心があるというよりも、先ず、神様の決心があるからです。「わたしはあなたをとこしえに愛する、あなたを導き生かす」という神の決心を前に、何ものも妨げとはなりえないのです。
■喜びの旅
洗礼を受けた宦官は、39節で「喜びにあふれて旅を続けた」と書かれています。宦官が馬車に乗って通っていた道、そこは、「寂しい道」であったと26節に書かれていました。このことは、わたしたちの人生に置き換えられるでしょう。わたしたちもまた、人生において寂しい道を、荒れ野を通る時がある。喪失や、孤独や、老いや病や…。そこでは洗礼という出来事は、まるで砂漠に一滴の水がこぼれ落ちるような僅かなことでしかないのでしょうか。いいえ、その寂しい道こそ、主に見出された道、主が伴い導かれる道であるのだということを知る時、その道をも「喜びの旅」として進んでいくことができるのです。
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