札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■復活についての問答
サドカイ派は復活信仰を、モーセ五書(創世記〜申命記のモーセが記したとされる5つの書で、サドカイ派の規範)の範疇にはない新興の思想として否定していました。彼らは、御自身の死と復活を語る主イエスを否定するために申命記の言葉を根拠とした問を持ちかけました。すなわち、「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけなければならない』と」。申命記25章には、夫が死んだらその兄弟が妻をめとって子孫を残し、神の民としての家名を存続すべしという定めがありますが、仮に7人の兄弟と順に結婚するも跡継ぎを残さず死んだ妻がいた場合、その人は復活後、誰の妻となるのか、と。
■定めからの「解放」としての死
主イエスの答えは自由です。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しいものであり、復活にあずかる者として、神の子だからである」34節。めとるとか嫁ぐというこの世の法・習わしというものには囚われません。モーセ五書(律法)という規範は生きている間のものに過ぎず、死ねばそこから解放されるのです(参考:ローマの信徒への手紙7章)。死は「終わり」ではなく、「解放」であり、復活は「新しい命の始まり」です。そこに地上の概念を当てはめることはできないのです。
■神の子として生きる復活
主イエスは、復活を「天使に等しい者」、「神の子」という表現で語っています。これは地上の人格とは全く別の新しい人格になるというよりも、本来その人が神から賦与されているところのアイデンティティです。復活の時、その人は神のとこしえの愛と祝福の中で、神の子としてのまことの自分を生きるものとされるのです。そして、そこでは死はもはや克服されたものであり、復活の命に入り込む余地はないのです。死は復活によって永遠に克服されたからです。(参考:ヨハネ黙示録21:4)。
■イエスの死と復活に与る洗礼
主イエスは、サドカイ派が多数を占める最高法院の席で罪人として裁かれ、十字架に架けられ、墓に葬られました。しかし、三日目にイエスは復活させられたと聖書は証言します。それは単に死んだ人が生き返ったということを言っているのではないのです。罪人として完全に死んだものが、神の子として新しい命に復活したということです。来月クリスマスの朝に洗礼式が行われます。先週の説教でも語られたように、洗礼とは「沈める」こと、すなわち、イエスと共に完全に死ぬこと、罪人として死なれたイエスの死に与ることです。そして、神の子として復活させられたイエスの命に与るということです。死をもって罪の支配から解放され自由とされ、神の前にとこしえに愛する子として生かされる、この恵みを信じて生きていくことが洗礼であり、この恵みに日々応えて、キリストと共に、キリストに従って生きていくのです。
■「すべての人は神によって生きている」
主イエスは、サドカイ派の人々が規範とするモーセ五書にも、復活の希望は示されていると言いました。すなわち、モーセ自身が、神を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んだということは、神が昔も今も変わらず彼らの神としておられ、彼らは神によって生きていることを意味しているというのです。モーセ自身が、死で終わりとはされず神の子としてとこしえに生きる永遠の命、復活の希望を示しているではないか、と主イエスは言うのです。そして、アブラハムたちだけではなく、「すべての人は、神によって生きている」(38節)と言うのです。イエス・キリストがそう言われたのです。イエス・キリストは、ごく限られた一部の敬虔な人々、正しい人々のためだけに死んで復活されたのでありません。それは、すべての人のための死であり、すべての人のための復活でありました。神が一人の人間、しかも赤ん坊となって世に来られた時、天使は告げました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(ルカ1:10)と。降誕の出来事は、「すべての人は神によって生きている」という福音が訪れた出来事です。
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