札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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ルカによる福音書の第5章には(1〜11)、シモン・ペトロがティべリアス湖(ガリラヤ湖)において主イエスと出会い、網を捨てて弟子となって従っていった出来事が記されていますが、その同じ場所において、ペトロは再び漁師に戻ろうとします。一度捨てたはずの網を再び手にして彼は漁に出かけます。共観福音書では、復活の主イエスは弟子たちよりも先にガリラヤに行かれると記し、復活の主と弟子たちとの出会いがガリラヤにおいて起こることを記していますが、彼らがガリラヤに帰ったのは主のこの言葉によるものではありませんでした。このときの弟子たちの心には、ガリラヤにおいて主イエスと再会することができるという期待ではなく、主に出会う以前の生活に戻ろうとする気持ちが伺えるだけです。主イエスが十字架にかかって死んだ今となっては、自分たちの生きる拠り所となるものは、かつて漁師として鍛え上げた自分の腕しかなかったのでしょう。しかし、漁に出た夜、何の収穫もありませんでした。
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福音書は、弟子たちの人としてのありのままの姿を記しています。それは弟子たちの躓きと失敗の記録であると言うことができるほどですが、ここでも弟子たちは主イエスに躓き、前に進めず立ち止まるどころか、その歩みを後退させています。かつて主イエスが、「わたしから離れては、あなたがたは何ひとつできない」とペトロに言われましたが、その言葉さえも彼らは忘れ去ったかのようです。
夜通し働いた弟子たちのもとに復活された主イエスが岸に立たれています。しかしペトロをはじめとして、舟にいる弟子たちはそれが主イエスであることに気付くことはできません。気付くはずがありません。復活の主イエスが自分に臨まれているのに、そのことに気付かない姿は、わたしたちの現実でもあります。
岸辺に立つ主は「子たちよ、何か食べる物があるか』と声を掛けられます。彼らの答えは「ありません」です。当然です。憔悴しきった弟子たちの率直な答えです。そこには聖書が示す人間の現実の姿が描き出されています。神の前にあってのわたしたちの姿は、「何もない・何も持ち得ない」自分です。復活の主の前にあってなお、わたしたちは何もできない人間なのです。弟子たちがまさにそうでした。主イエスの教えを間近で聞き、歩みを共にし、十字架をまのあたりにしてもなお、何もないのです。しかし彼らに臨んだ復活の主は、具体的に働きかけられます。主イエスは言われました。「船の右側に網を打ちなさい。」弟子たちがその通りにすると、網を引き揚げることができないほど多くの魚が捕れました。復活の主が具体的に働きかけられた結果です。これと同じことが、わたしたちにももたらされるのです。
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弟子たちは主イエスの死に躓きました。自分の側から、自らの力では主に従い続けることも、その約束にすがり続けることもできなかったのです。これはわたしたちの姿でもあります。主イエス(の教え)に従うと告白しつつも、困難に出会ったとき、打ちひしがれたとき、そのことを忘れ、自力で乗り越えようとします。「強くありたい」という願望は、わたしたちにとって強くあるべきという価値観となり、「弱い者・できない者」を蔑視するとまではいかずとも、憐れみや手を差し伸べる対象として扱い、逆にそれが自分であれば、落胆して落ち込んでしまいかねません。「誰の助けも必要とせず、自分の腕や経験に頼ろうとした結果、一晩中漁をしても一匹の魚も捕れない漁師」にわたしたちはなってしまうのでしょう。
主イエスはわたしたちの傍らにいつもいてくださり、人に見せたくない自分をわたしたちが差し出すのを待っておられます。「できる」自分を主に差し出そうとするようなわたしたちを待っておられるのではありません。必要なのは主イエスの働きかけを必要とするわたしたちであり、わたしたちのためにそれに先立ってなされた主の復活の出来事なのです。
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主イエスは弟子たちの行動とは全く別のところで働いておられました。弟子たちがまだ主イエスを認められないときに、既に岸辺で「食事の用意」をされていたのです。今日も明日も復活の主イエスはわたしたちの知らないところで、わたしたちのために火を起こし、魚を焼き、パンを用意してくださっているのです。極めて具体的に、わたしたちのために、そのときに必要なものをわたしたちに備えてくださっているのです。主イエスの「子たちよ、何か食べ物があるか」とは「何も食べる物があるまい」という意味なのではないでしょうか。わたしたちへの投げ掛けの言葉ではないでしょうか。その意味において、主イエスはわたしたちの困窮をすべて知っておられるのです。
「何か食べ物があるか」「今はありませんが、もう少し頑張ってみます」
そう答える必要はないのです。
「何か食べ物があるか」「ありません」「右の方に網を打ちなさい」
主イエスを忘れて故郷に帰り、召命以前の状態に戻ってしまった弟子たちが、復活の主と出会い、信仰を回復し、使徒の使命を与えられた・・・・・この出来事はわたしたちにももたらされるのです。
繰り返します。主イエスはわたしたちの困窮をすべて知っておられるのです。
もはやわたしたちの方から主イエスを訪ね求める必要が無くなるほどに、主がわたしたちを見つめ、近付かれ、呼び寄せてくださる。そしてわたしたちのために必要なものはすでに用意してくださっているのです。
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