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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■キリストの昇天と聖霊降臨
復活の主イエスが天に昇り、雲の中に消えた時、弟子たちは茫然と天を見つめていました。「主イエスは自分たちから離れ去ってしまった」「主イエスは過去の思い出になってしまったのだ」、そんな思いに覆われていたところに、「なぜ天を見上げて立っているのか」と呼び掛ける天使の声がありました。それは、「あなたがたの目を地上に向け、主イエスの愛を身に帯びてしっかり歩いて行け!主イエスは離れ去ったのでも、過去となったのでもない、実にここから新たにあなたたちを導かれるのだ」という励ましの言葉です。そして聖霊降臨の出来事が起きるのです。主イエスは、聖霊において今日も明日も、働き、導かれるということが示され、希望と力に満たされて始まった教会の歩みは、今日にまで紡がれています。

■聖霊の導き
ガラテヤの信徒への手紙の中でパウロは、キリストによって捕えられ、聖霊に導かれて生きる者の道を示しています。もはや、罪からも死の支配からも解き放たれた自由なものとして、神に限りなく愛されている者として、あなたたちは、自分の肉欲を満足させる方向ではなく、隣人を愛し、互いに仕えあうことを追い求めよ、それがあなたたちの向う方向、聖霊が導く方向であることを忘れてはならない、というのです。復活した主イエスは、ペトロに「(あなたはこれから)、両手を伸ばして、行きたくないところへ連れて行かれると言われました。聖霊の導きとは、わたしたちを期待する方向へと見事に導いてくれる都合の良いものではありません。むしろ、私たちが「行きたくない」と躊躇しているところへと連れていくのです。ヨナが魚の中から吐き出されて、ずっと拒んでいたニネヴェへ着いたように。自分が傷ついてしまうことを畏れているところ、自分が軽蔑し憎んでしまっているところ、あるいは自分の無力さを痛感させられるようなところ、二の足を踏んでいるようなまさにそのところへと。

■互いに重荷を担う
今日の箇所には、聖霊の導きを信じて生きる者が、互いに心がけるべき事柄が記されています。「不注意にも罪に陥った者がいたならば、柔和な心で接すると共に、あなた自身も気を付けなさい」(1節)「互いに重荷を担いなさい」(2節)といった内容です。「罪」とは自分が、また隣人が、神に限りなく愛されている事実をすっかり忘れ去ってしまった有様全般です。それは誰もが陥ることです。「不注意にも」と言われていますが、実に私たちは誰しもが、神様の愛という事実に「不注意」な者なのです。罪に陥った者を、感情のままに裁くということを人は簡単にしてしまうのですが、ここで聖書は、罪に陥ったその人の問題ではなく、むしろ、その人を裁き、責めてしまう人、「自分こそこの人を責める権利がある」と思ってしまっているその人自身の問題を見つめています。「柔和な心で接すると共に、あなた自身も気を付けなさ」と、そして「互いに重荷を担いなさい」と言うのです。あなたがその人と共に負うべき重荷、連帯すべき問題でもあるというのです。そこに聖霊の導きはあるというのです。

■何者でもない自分
「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思い上がって、自分自身を欺くことはやめよ。自分の行いを吟味すれば、他人に自分のことを誇ることなどできないはずだ」(3節)といった内容です。自分は特別だと思い上がり、他者と線引きする、それは「何者でもない自分」ということを認められず、恐れていることの裏返しです。それが自慢や高ぶりとなって現れてくるのです。自分は「何者でもない」「何も誇り得るものなどない」という気付きこそ大切です。創世記が「人は土から造られた」と語っている言葉は、その点で真実なのです。自身では何一つ持たないただの土くれ、無力な者であることを知るからこそ、すべてのことは神の恵み、神の御業だと理解することができる、そして主の導きを信頼して生きることができるのです。また、だからこそ、自分は独りで生きることなどできないことを謙って認め、互いに他者を必要としあい、支え合い、理解し合い、重荷を担い合うという生き方ができるのです。そのように、聖霊はわたしたちを「共に生きる」ものとして導かれるのです。
「人は自分の蒔いたものを、刈り取ることになるのだ」。これは世間一般でも良く使われる言い回しです。最終的に「命」を刈り取ることになるのか、「滅び」を刈り取ることになるのか、それはすべて自分が蒔いた種なのだ。これは人の過ちを裁き、高ぶり、重荷を押し付けるだけだとすれば、その生き方がどうして豊かな実りを付けるだろうか、そんな忠告として理解したいと思います。神様は、私たちを滅びに定められる方ではなく、イエス・キリストのゆえに、滅ぶべきわたしたちを愛し、赦し、命を与えてくださったのです。何度も罪を繰り返すこの私たちを、飽きもせず、見捨てずご自身の者としてとらえて下さるのです。だからこそ、この恵みに支えられて、自分を誇らず、互いに重荷を負いながら他者と共に生き、共に命の種を蒔き、共に喜びを刈り取るような生き方を求めていきたいと願います。

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