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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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あなたが救い主ならば
十字架上の一人の犯罪人は、大声で最後の力をふり絞るようにして主イエスのことを罵りました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。十字架に架けられた自分自身を救ってみろ、神の子の力というものを見せてみろ。自分が死んでしまっては、どうやって他人を救えるのか、と。死を目前にした人間からの最も深刻で難解な「問い」です。
こんな罵りや嘲笑いではなくとも、私たちも時にそのように訴えているかもしれません。人生の不条理とも言うべき出来事、答えの希望の見えない苦しみ悲しみに直面した時、「神よ、なぜ助けてくれないのですか」「なぜ救い出してくれないのですか」と。主イエスが、十字架の上で「我が神、我が神、なぜわたしを見捨てたもうたのか」と叫んだとうあの叫びは、一緒に十字架に架かって苦しむ私たち自身の叫びです。

わたしと一緒に
「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出してください」。もう一人の罪人には落ち着きがあります。しかし、その落ち着きは「諦め」によるものではないでしょうか。心からの信頼、メシアであるイエスへの希望によるのではなく、諦めの中、自分自身を慰めるように言ったのかもしれません。これに対して主イエスは応えました。「はっきり言っておくが、あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」。「わたしと一緒に」。主イエスを真ん中に左右の罪人が十字架にかけられイエスと一緒に死んでいく。主イエスが罪人となって一緒に死んで下さっている。彼らはここで罪人として完全に死なれるイエスの死にあずかる者とされているのです。それゆえに、イエスの復活の命に与る者ともされている。イエス・キリストにありて罪の内に全く死に、神の前にはとこしえに愛する子として生かされる、その福音がこのゴルゴタの光景に映し出されています。

エデンの園へ
また主イエスは、「あなたは今日、楽園にいる」と言われました。神は、エデンの園で、土から人を形作り、その鼻に命を吹き入れ、そうして人は生きる者となりました。けれども、人は神に背いたその罪のゆえに楽園を追われてしまった、そんな物語です。十字架上で彼ら罪人は、人からも神から追放されたのでしょうか。いいえ、息を引き取っていく罪人は、しかし、ここで、主イエスの復活の命にあずかる神の子として、神に息を吹き入れられ、まことに生きるものとされているのです。エデンの園で、神は人間に言いました。「人が独りでいるのは良くない。彼にあう助けるものを造ろう」。こうして女と男が造られたという物語。十字架上で主イエスもまた言われるのです。「あなたは、わたしと一緒に楽園にいる。あなたは独りではない」と。主イエスが世に来られた意味がこの十字架において最も鮮明にされていました。

いにしえからとこしえまで
「わたしのことを思い出して下さい」。しかし、主イエスは、彼らを過去の思い出にはしません。主イエスはサドカイ派の人々に、「モーセも『柴』の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(ルカ20章 先週の説教)と言いました。アブラハムもイサクもヤコブもモーセの時代には、数百年も昔世を去った過去の人だけれども、神は彼らを過去の思い出にしておられない。いにしえからとこしえまで、アブラハムを愛する神、イサクを愛する神、ヤコブを愛する神なのです。この神の愛の内に彼らは生きる、「すべての人」が生きるというのです。

喧騒の中で主の言葉を聴く
ゴルゴタの丘、群衆の罵声と嘲笑で騒然する中で、この世的な希望から最もかけ離れた場所で、「はっきり言っておく」と主イエスが告げられたこの希望の言葉を、私たちも日々騒がしい声に囲まれている中で、はっきり聞き分けたいと思います。来週からアドヴェント。主イエスがこの希望を携えて世に来て下さった降誕の夜を思い起こしつつ、そして主が御国に迎え入れるために再び来られる、その約束の果たされるその日その時が近い、光は訪れているということを、灯すろうそくの光を数えながら待ち望む、そしてその時まで、主に与えられ、生かされてある一日一日の営みに愛を込めて歩みましょう。

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