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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■神、降臨!?
小アジアの町リストラで、バルナバとパウロは、ギリシャ神話の神ゼウスやヘルメスと同一視され人々から崇められました。二人は有頂天となった、のではなく、服を裂いて群衆に飛び込み、激怒したのでした。二人は自分たちが神のように祀り上げられる偶像化を拒絶し、徹底して人間に過ぎないことを主張しました。パウロとしては、町の人々が生けるまことの唯一の神を知り、偶像の神から離れるために、伝道しているにも関わらず、その意に全く反した状況になってしまったのです。

■形あるものを求める心理
この世は不条理に満ちています。幸福であるかと思えば、突如に不幸に陥り、自然によって生活が営まれているかと思えば、自然によってそれが破壊されもするのです。人は、得体の知れない圧倒的な力によって自分が治められ、また振り回されているかのような不安を持つのです。そこで地を鎮めるため、豊穣を願うため、健康や富や幸福を願うため、なんらかの形あるものを創り出し、それに向かって拝むのです。得体の知れない、掴みどころのないものを、人間が理解し捉えられる対象にしたいという心理がそこにはあるのでしょう。しかし、結局のところそうした偶像は、人間の不安や願望を映し出した「鏡」に過ぎないのです。そこでは神が先にあるのではなくて、人の願いが先なのです。

■見えない神
「あなたは、わたしをおいて他に神があってはならない。あなたはいかなる像も作ってはならない。あなたはそれに向かってひれ伏したり、それらに仕えてはならない。わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である。」(出エジプト記20章)
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。(申命記6章)
神は目には見えません。「見えない」とは、人間が決して捉えられないということであり、また決して朽ちることがないということです。人間には捉えられず、朽ちることのない創造主である神を、朽ちるべき被造物に過ぎない人や動物や植物といったイメージ・形に置き換えて、これに感謝してみたり、恐れてみたりする、それは人間の倒錯です。

■聞くべき方
神が目には見えないということ、それは神とは「見る」べき方ではなく、「聞く」べき方なのだということです。何かあれば、「見る」ことを選ぼうとし、目に見えるものに確かさを求める人間に対し、神は聖書の中で、繰り返し、「イスラエルよ、聞け」と民に呼びかけ、「聞く」ことを求められるのです。
主イエスは、荒れ野でサタンの誘惑を受けました。「この石をパンに変えて食べたら良いではないか」「わたしを拝んだら、この世界の繁栄をすべてお前にやろう」。目に見えるものの確かさにイエス誘惑されました。しかし、イエスはこれを拒絶して答えます。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」「退けサタン、あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」。また、復活の主イエスはトマスに「見ないで信じる者は幸いである」と告げました。それは単に見る・見ないということではなく、「聞く」ことにといてこそ、復活の主イエスとのまことの出会いがあるということを示しているのではないでしょうか。
わたしたちは、この場所に「主の言葉を聞く」ために集められているのです。主イエスは言われました。「羊飼いは自分の羊の名を 呼んで連れ出す。羊はその声を知っているのでついていく。ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである」(ヨハネ10:3-5)。羊は、羊飼いの姿形を見てではなく、その声を聞き分けることによって従うのです。

■神の言葉、イエス・キリスト
神ならぬ偶像・神話が、神に取って代わり、人々の心と生活にその腐食を進めています。権力者・独裁者が偶像化され、全体的な秩序となり、民がその名のもとに振り回され破滅に走った時代は、決して過去のものではありません。「あなたはそれに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」。この戒めは、今も生きているのです。
「言は肉となって、私たちの間に宿られた」。イエス・キリストこそ、私たちが真に聞くべき、そして、信じ従うべき神の言であるということ、そしてその言葉は決して鎖につながれず、自由に私たちに語られ、働く言葉です。草は枯れ、花はしぼむが、決して朽ちずしぼむことのない、主の真の愛の言葉を、真の慰め、真の励ましの言葉を、正義と公正の言葉を、私たちの道の光としましょう。この言葉によって(この言葉と共に)、私たちは語り、また行動していくものとされるのです。

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