札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■福音の始まり
「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1節)と語り出すマルコ福音書にはマタイやルカのようなキリスト誕生のエピソードはありません。同福音書は「福音の初め」として預言者イザヤの言葉にこそ注目します。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」(2-3節)。イザヤのこの預言が洗礼者ヨハネの登場をもって実現したことは、もうその背後に救い主の足音が近づいている、すなわち福音が始まろうとしていることを意味しました。
洗礼者ヨハネは、間もなく来られるこの方によって罪赦されて救いを得るためには、今こそ自らの罪を深く見つめ、悔い改めの洗礼を受けるよう訴えました。これは単に個々人の神に対する罪の懺悔の問題ではありません。「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆」(5節)とあるように、ヨハネは、いまこそイスラエル全体のその歴史における神への背きの罪を深く見つめよ、と言っているのです。
■罪と死からの救い
イスラエルの民は、バビロン捕囚という亡国の悲惨をなぜ自分たちが味わわねばならなかったのかを問うた時、それは神が我々を見捨てた出来事ではなく、我々こそがエジプトから導き出して下さった神に背き続けてきたことの当然の結果であったと受け止めました。しかし、それでも神は我々を見捨てず、憐れみをもって覚え続けて下さること、やがてこの罪を赦し、救い出して下さることを信じ待ち望み続けたのです。そして、ローマ帝国の支配が及ぶこの時代に際して神の救いが到来することをヨハネは告げ、神が憐れんで下さるあなたがたの罪を深く見つめよと訴えたのです。マルコ福音書には降誕物語はありませんが、キリストがこの世に来られたことの意味、キリストを迎える者としての姿勢については明確です。この世の神への背きの罪という現実を見つめること抜きに「神の子イエス・キリストの福音」(1節)は始まらない、ということです。
救い主は、この世を何から救って下さるというのでしょう。それは罪からの救いです。神ではなく世の言葉に倣って生きる罪、神ではなく己の思いと力を頼りに生きる罪、それゆえにもはや神の前には死んでしまっている罪です。そのことにすら気付かないというのが罪の本質でもあるでしょう。神を喪失し、罪と死の闇に横たわっているところからキリストが救い出して下さったということ、これが福音なのです。その福音がいま始まったのだ!とマルコは告げるのです。
■原罪?いや「原愛」!
キリストが来られたということは、人は自分自身を救い出すことは決して出来なかったということです。人はいくら己の罪を、世の罪を見つめ、悔いて涙し、更生した改心したと言ってもなおその罪を攻略することはできず、むしろ罪によって攻略されているのです。「人は皆、アダムの罪を負っており、生まれながらにして罪人である」という「原罪」理解がありますが、これは人間が罪というものに対し如何に無力かを説明せんがために生まれた極論でしょう。人は生まれながらにしてどうして罪人でしょう。どうして神が人を予め罪人としてお創りになるでしょう。すべての人間に備わっているのは「原罪」ではなく、神の愛、いわば「原愛」です。しかし、この愛を絶え間なく破り捨て続けきたのです。キリストはその世の中に、人間の罪と死のただなかにご自身をお与えになりました。それは、あなたがどれほど神に愛され、祝福されたものであるのかを命を掛けて示し、神に愛された子としての喜びへと招き入れるためです。
■洗礼を受けたイエス・キリスト
主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。マルコ福音書が記す最初の主イエスの姿は「飼い葉桶に眠る幼子」ではなく「洗礼を受ける一人のナザレ人」です。主イエスが罪を告白して洗礼を受ける人々の列に加わられたという事実、それは主イエスがこの世のすべての人と深く決定的につながって下さったこと、わたしたちの罪の現実に連なりこれを負って下さったということに他なりません。主イエスが受けた洗礼、それは十字架の死という洗礼(マルコ10章38節)を示しています。キリストがこの世につながり、この世を引き受け、この世を罪と死から救い出されたという福音が、もうここに始まっていることを物語っているのです。
主イエスが水の中から起こされた時、天が開け霊が鳩のように下り、そして声が聞こえてきました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。これは主イエスがつながってくださったすべての人々に聞き届けられている声です。主イエスの受けた十字架という洗礼のゆえに、罪と死に閉ざされていたすべての人に向かって、今日天は開かれ、神の祝福は注がれています。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。わたしたちは、生きる生活の現場でいつもこの声を触れている一人ひとりです。
■わたしたちの新たな誕生物語
マルコ福音書にキリスト誕生の物語はありません。しかし、ここにはイエス・キリストがこうして世につながってくださったことによる「私たち自身のいのちの誕生」が告げられています。もはや罪と死から解放された神の子として、わたしたちは今年も、「イエス・キリストの福音」によって生きていくのです。そして、この福音を荒れ野のような世にあって告げ知らせる「声」として遣わされていくのです。
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