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■「お前の問題だ」
銀貨30枚で売り渡したイエスの死が決定的となった時、裏切ったユダは激しく自責の念に駆られました。罪を犯したのは主イエスではなく、自分なのだと祭司長たちに告白しましたが、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と一蹴されました。自己責任を突きつけられたユダは、自ら命を絶つことで主イエスに対する責任を償い清算できると考えたでしょうか。いや、どうやっても償えないからこそ、死ぬるほかに道が見いだせない破滅に追い詰められたのです。
歴史に「もしも」はありませんが、もしもユダがせめて数日間どこかで呻き苦しんでいたならば、主イエスを否認したペトロと出会った可能性があったでしょう。そして共に徹底的に打ち砕かれ、復活の主に見える可能性があったでしょう。想像だにしなかった別の道を主によって見出していったかもしれません。主イエスの命と銀貨30枚を引き換えにしたユダだからこそ、父なる神が独り子キリストの命と自分を引き換えにして下さったという驚くべき福音を実感できたかもしれません。しかし、それは後戻りできない「もしも」の話です。

■今日のユダ
「私はユダのような卑怯で、欲深い人間ではない」と皆が思うでしょう。確かに外見も内面も違います。ですが、それは皆が違う仕方で主に背きながら生きているということでもあるでしょう。ユダは反面教師ではなく、わたしたちはわたしたちなりのユダ、「今日のユダ」であることを否定できません。それでも「いいや、わたしは絶対にユダとは違う!」と断言できるものがあるとするならば、それはユダは死にわたしは今日生きている、という違いでしょう。さればこそ、わたしたちは主との本当の出会いを、後戻りのできない「もしも」の話にしてはならないのです。

■まさにそれは「あなたの問題」
「我々の知ったことではない」。責任問題をすべてユダに押し付け、自分たちについて「われ関せず」を決め込む祭司長たち。弁解ならいくらでもできると思っている彼ら。実は、それこそが神に対する態度そのものなのではないでしょうか。神の御前に自分の問題を隠蔽し、ごまかしが効くと思って我が物顔で生きている。そうして巧みに身を潜めるのが人間の罪というものの実態ではないでしょうか。「我々の知ったことじゃない。すべてお前の問題だ」と言い放ったものの、しかし、本当のところ、主イエスが十字架でなぜ死なれたのか、誰のために死なれたのか、それは彼らこそ知るべき、彼らの問題であったのです。
わたしたちも然り。「私はユダのような人間ではない」との弁解に固執するのではなく、ユダと同じく「私は罪を犯しました」「主に背きました」と告白する道が与えられています。それは破滅へ続く道ではなく、主イエスの前に赦しと愛を告げられる道です。
わたしたちは、いつだって自分の正しさを主張し、誇るものを何も持たない群れであります。言い換えれば、もはや自分の正しさを主張することも誇ることも必要ないそんな群れです。主の前に問題をすり替えながら自己弁明する必要などないのです。「あなたを赦し、あなたを愛し、あなたを祝福している」そう告げられる主に心から感謝し、これに応えて生きていこうとする道のみです。

■本当に不思議なこと
ピラトは「非常に不思議に思った」。主イエスが、人々の不当な訴えに何一つ弁明しなかったからです。しかし、ピラト自身気付くことのできない「本当に不思議なこと」があります。それは、この主イエスの沈黙の中で、皆の罪が担われているということ、この方によって完全な贖いと赦しが果たされようとしているということです。自分自身では決して克服することのできない罪の問題、死ぬるほかない罪の責任が、しかし主イエス・キリストこの方の十字架の死において担われ、贖われたという不思議な、測り知れない神の御業がここにあります。
「今日のユダ」である私たちは、その恵みを復活のキリストによって告げられています。この私を愛と赦しの中に生かすご自身へと、主はわたしたちを招かれます。その招きに応えていくか否か、それは誰かが決めてくれることではなく、それこそ「あなたの問題なのだ」と愛をもって告げられています。

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