札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光

日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

札幌北光教会/トップお問い合わせ
札幌北光教会/トップキリストの招き平和宣言過去の信仰告白オルガン結婚式・葬儀アクセスマップfacebook
教会案内礼拝案内集会案内牧師紹介/説教納骨堂/クリプト北光貸し会議室

>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教  >何もできないわたしでも


福音書は、イエス・キリストの生涯とそのなかで語られた言葉を記すことによって、当時の人たちとイエス・キリストとのかかわりの様子を生き生きとした形で、時代を超えてわたしたちに伝えます。イエス・キリストの(宣教)活動は、主として「教え」と「奇跡」ですが、教えのなかでも特に「たとえ」は多くの人たちに理解しやすく、また親しみやすい形で神についての教えを伝えます。キリストは、例えば羊と羊飼いや種を撒く人、いちじくの木、麦などの、人々の日常生活のありふれた風景のなかで起こる出来事や様子を題材に取り上げて、神の国について語られたのでした。なかでもこの「ぶどうの木のたとえ」は、イエス・キリストとわたしたちとの関係を、この上なく簡潔に、しかし力強く示している大切なたとえです。
………………………………………

「わたしはぶどうの木」
イエス・キリストは、しばしば自分自身を指して「わたしは……である」と表現されます。同じヨハネによる福音書の他の箇所にも「わたしは道であり、真理であり、命である」との有名なたとえがあります。「わたしは……のようなものである」とか「わたしは……を示す」とは言われません。わたしがぶどうの木そのものであると断定的に言われるところに大切な意味があります。イエス・キリストは人々に道を教える「案内人」ではありません。「わたしは真理である」と言われるとき、キリストが真理そのものであるというように、「……のようなもの」というよりもはるかに強い表現をされることによって、たとえの意味が強調されます。ぶどうの木は地中数十メートルという深さまで根を張り、その地に微動だにせず立ち続けて絶えず豊かに実を結びます。そのように揺るぎなく存在するキリストの在りよう、絶対性は、「……のようなもの」では伝わりきらないのです。いずれにしても「わたしはぶどうの木」という表現は、イエス・キリストがわたしたちにとっての確かな拠り所であることの証なのです。
………………………………………

「あなたがたはその枝である」
言うまでもなく、実を結ぶためには枝が必要です。幹には直接実はなりません。そして枝はそれ自体で生きることはできず確実に幹につながっていなければ枯れるのです。イエス・キリストはご自身とわたしたちとの関係がこのような有機的な結び付きであることを示します。主体は幹としてのキリストであるにせよ、キリストとわたしたちは「片方なくしてはもう片方も生き続けることができない、在り続けることができない」関係なのです。わたしたちは神からの命の糧を必要としていますし、神はわたしたちに働き人として実を結ぶことを求めておられるのです。
………………………………………

「あなたがたは何もできない」
もしもイエス・キリストにつながっていなければ、わたしたちは「何もできない」ということが強調されます。このたとえは励ましの言葉であることと併せて、厳しい警告でもあります。「充分できない」とか「ほとんどできない」のではなく、キリストを離れては「何もできない」のです。もしわたしたちが、自分を一廉(ひとかど)の者であるとの思い上がりによって、幹であるキリストから離れようものなら必ず枯れてしまいます。キリストがあえてこのような強い口調でこう語られたのは、わたしたちが自らの能力を過信し、あるいは自らの考えや行いに自惚れ、その結果として神との関係を断ち切ろうとしたり二の次とするような危険性があまりにも高いからなのです。長い年月を経て成長したぶどうの木は実を結ぶに至ります。決して枝だけで実は結びません。イエス・キリストとわたしたち一人ひとりがかたく結びついて、全体でぶどうの木です。この結びつきにおいて命が存在し、実を結びます。そして結実の成果は、続く箇所に具体的に示されています。それはわたしたちが「互いに愛し合う」ことです。イエス・キリストにつながり(キリストの愛に留まり)、互いに愛し合うことを実践することにより、全体としてぶどうの木がさらに豊かに成長していくのです。

前のページに戻る

お問い合わせ北光幼稚園

個人情報保護方針について