札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■人の命は財産によらず
「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言って下さい」(13節)。この人は、兄弟間の遺産相続をめぐるトラブルで悩んでいました。主イエスがこの悩みに耳を傾けて下さったなら、問題が解決するかもしれないと思ったのでしょう。恥を忍んで群衆の中から助けを求めました。しかし、これに対して主イエスは、「わたしはあなたたち兄弟の裁判官でも調停人でもない」「貪欲というものに注意しなさい」とおっしゃったのです。主イエスは、この人の奥に潜む「貪欲」を見つめます。そして、「人の命は財産によってどうすることもできない」(15節)と。私たちはその言葉に抵抗を覚えます。人が生きるには現実としてお金(財産)が必要なのです。急激な円安ともなれば、大いに喜んでいる人もいれば、切実な状況に追い詰められている人もいます。お金は生きることに直結しているのであって「人の命は財産によらない」とは非現実的だと感じます。しかし、そこに主イエスの言われる「貪欲」は潜みます。なんとしても自分の命と生活を維持しなければならないと思うまさにそこで、その人は自分の命を、まるで自分自身の所有としてしまうからです。神を忘れてしまうほど、自分の命を自分の相続、所有にしてしまう現実、それが主イエスの言われる貪欲です。
■心の貧しい人々は幸いである
誰しもが人生設計をするでしょう。計画なしというのは無謀で恐ろしいことに思います。自分の将来と生活について、身の丈に合わせた計画もあれば、壮大な計画を描く場合もあるでしょう。教会も財政面を一つの重要な観点として現在と将来を設計し展望します。それらは有意義であり、大切なことですが、しかし、根本的なことではありません。先週は、「心の貧しい人々の幸い」についてお話ししたのです。自分自身の内に依り頼むべき可能性を持たず、ただこのわたしをあるべきものとして造り出された神への信頼と謙遜によって生きる人です。山上の説教において、主イエスは「何を着ようか、何を飲もうかと思い悩むな」「野の花、空の鳥を見よ」「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神は装って下さる。まして、あなたがたにはなおさらのことだ」と言われました。ここにも貪欲への注意が語られているでしょう。主イエスは、「自分の人生設計をせよ、経済的安定を求めよ」とは決しておっしゃいません。「(それら)何よりもまず、神の国と神の義を求めよ」なのです。
■愚かな金持ちのたとえ
「自分にこういってやるのだ。『さぁ、これから何年先も生きて行くだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』」(19節)。豊作により、一層大きな倉庫の建設を計画した金持ちは、そのように妄想の中で自らを祝福します。「お前はこの先ずっと安泰だ」。自分で自分を祝福し、自分自身を喜び抱きしめながら、自分が命の所有者になっていました。しかし、それは何の保証もないことです。それがどんなに愚かで危ういことか。これは金持ちの話ですが、逆の場合も同じことでしょう。貧しさゆえに自分の生をひたすら思い悩む時、そこでもまた人は命を自分自身の所有として抱え込んでしまう。あるいは所有しつづけることに疲れ果ててしまう。それが如何に危ういことかと言うのです。
■「取り上げる」のは神
「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」(20節)。突然の宣告を受けた彼の反応は何も書かれていません。彼はこの言葉に抗うことはできません。命はただ神が一方的に与え、神が一方的に取り上げられる「神のもの」ということが示されたのです。彼は自分で自分の命を保証することの愚かさ危うさを告げられたのと同時に、「あなたは神のものなのだ」という福音にも与っていると思うのです。
イエス・キリストは、十字架でこの世によって命を「取り上げ」られたのでしょうか。いいえ、神はこのイエスを甦らせ、やがて天に「上げられた」のでした(昇天)。イエスを本当に「取り上げ」ることができたのは、イエスをこの世に与えられた神です。イエスの死と復活と昇天、ここに私たちの命がただ神のものであり、神によって保証されているという福音があります。「死も、命も、…どんな被造物も、キリスト・イエスによって示された神の愛からこのわたしを引き離すことはできない」(ローマ8章39節)とパウロは告白しました。いかなるものもわたしを取り上げることはできない。神がわたしを決して誰にも引き渡しはしないのです。
先週もウィルスで亡くなる方があり、戦争で亡くなる方があり、思いがけない事故で亡くなる方があり。わたしたちは死に取り囲まれているかのようです。しかし、このわたしを取り上げられるのはただ神。この方がこのわたしを見出し、このわたしをご自身の宝として天に積んで下さっているのです。それは、誰にも盗まれることのない、虫に食い荒らされることもない恵みです。
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