札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■憤るイエス
人々が子どもたちを主イエスのもとに連れてきました。こういうことは、この時に限らずあちらこちらの町でしばしばあったのかもしれません。ところが、この時、主イエスの弟子たちは、この人々を叱り追い返そうとしました。旅で疲れているだろうイエスを気遣ってのことだったのかもしれません。いちいち相手にしていたらキリがないという思いがあったのではないでしょうか。しかし、それは、主イエスの心に反するものでありました。主イエスは、突如として憤りました。主イエスにとって、こどもたちが追い散らされることは、ご自身がこの世に来られた意味そのものを根本的に否定することにつながっていたからです。主イエスが、一人の幼子として世に来られたことも、そして今、十字架の待つエルサレムへと向かっていることも、その一切はすべての命に等しく神の子としての祝福が告げられるためです。主イエスの降誕、十字架の死、更には復活、ここには一筋の、一途な神の愛が表されています。神によって造られた一人一人の命が、どんなに愛され、肯定され、祝福されるべき存在であるか、主はその身を捧げるということをもって示されたのです。
■妨げてはならない
千歳駅のコインロッカーに遺棄された乳児の遺体が発見されたという痛ましい出来事がありました。その子の両親にどんな問題、どんな苦悩があったかは分かりません。誕生を共に喜び、共に助け合って生きていこうとする人はいなかったのでしょうか。助けを求めることさえできない事情があったのでしょうか。大人たちの都合、あるいは孤立を深める社会の現実によって新しい命が遺棄される現実があります。
この時、弟子たちが人々を叱り付けて、こどもたちを追い散らしたこと、それは些細なこと、日常的な光景と思えるかもしれませんが、その些細なところにこそ、社会の深刻に病んだ実態が浮き彫りになっているとも言えます。大人の都合や価値観に振り回され、追いやられ、どこにも居場所がなくお荷物とされる現実。共に命を喜び、共に生きようする人々がどこにもいない現実。この世的な優劣だけで測られ命を軽んじる現実。あるいは戦争によって、飢餓によって、虐待によって、虐殺によってこどもの命が奪われる現実は昔も今も変わらないのではなく、より深刻さを増しています。
その現実の中で主イエスは憤るのです。「子どもたちをわたしのところにこさせなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」。神の祝福が妨げられているのです。神が一人ひとりの命をどれほど愛し喜んで下さっていることか、その事実が世にあって忘れられ、捻じ曲げられ、妨げられています。ここで主イエスの弟子たちが祝福を妨げたのです。教会が妨げとはなっていないか、と問われているように思います。
■十字架へ進むイエス
もしこの時、主イエスが人々を追い返した弟子たちに、「助かった、ありがとう」と感謝したとするならば、その先エルサレムでの十字架と復活とは、空虚なパフォーマンスでしかなかったことでしょう。主イエスはこの罪深い現実を背負って十字架に進まれたのです。この命を喜べない人間の罪の現実、造り主の愛を見失った無責任で孤独な現実をその身に負われました。そして、復活を通して、「何者にも妨げられない神の祝福があなたにある」「決してあなたはみなしごではない」ということを示されたのです。
■こどものように神の国を受け入れる
鳥取教会で洗礼を受け、知的障がいを持つ子どもたちのために生涯をささげた糸賀一雄が、「この子らを世の光に」というフレーズを残したことは良く知られています。「この子らに世の光を」という恩恵的に与える福祉ではなく、自ら光り輝く存在である子どもたちが自らにいよいよ磨きをかけて輝き、社会を変革していく主体となっていく、そのような福祉を目指して「この子らを世の光に」と言ったのです。主イエスは言われました。「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。主イエスは「弱く小さなこどもを憐れみ、優しくしましょう」ということを教えたのではありません。あなたたちもまた「この子どもたちのようであれ」と言ったのです。こどもたちは自分の意志や力でやってきたのではありません。ただ連れられてきて、祝福を頂くままに受けたのです。自分はそれに相応しいという思いはありませんし、またなんの条件もありませんでした。しかし、大人がそこに条件や資格や格差を作り、妨げとなってしまうのです。
「あなたもまたこのこどものように神の国を受け入れよ」と主イエスは示されます。愛され、肯定された神の子として与えられる祝福を、互いに妨げず、そのままに頂く、そして共に喜び分かち合うことが求められます。「この人も主が命をかけて招いておられる一人である」と、主の眼差しをもってその人を見る時、聖霊は、私たちの舌に、人を呪い、遠ざける言葉ではなく、人の傷を覆い、励まし、祝福する新しい言葉を語り出させてくださることでしょう。
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