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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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イエス様はペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人を連れて、ゲツセマネ(油搾りの場所)のとあるところまで来ました。すると、イエス様は「驚き、困惑し始め」ました(33節直訳)。今回の箇所の直後、イエス様は逮捕され、十字架刑に苦しむことになります。この場所で自分は捕まるということをイエス様は悟り、そのことで驚き、どうしたらよいか分からず困り果てたということでしょうか。イエス様は連れてきた3人の弟子たちに言います。「わたしの心は死ぬほどに苦しい。ここにいて、目を覚ましていなさい。(34節)」イエス様の祈りからは、本音から来る悲痛な叫び、神さまへの信頼といった、いろんな思いが混ざり合っています(36節)。

それでは、そばにいた3人の弟子たちはどうしたでしょうか。彼等は、イエス様が祈っている間、眠っていたのでした。そんな弟子たちに、イエス様は、一度目の祈りを終えて、次のように言いました。「心は燃えても、肉体は弱い。(38節)」この言葉は、ギリシャ語の直訳では、もっとストレートです。「心は思いへと向かっている。しかし肉体は弱い。」わたしは、イエス様は祈りを繰り返して、心も体もやる気に満ちあふれたから、十字架を背負おうと決意したのだと思っていました。しかし、もしかすると、それは違うのではないか。イエス様が祈っていたことは、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」でした(36節)。つまり、これから起こるすべてのことは、イエス様自身の願いや力によるものではなく、神さまの御心だけが為されていたのではないか、と思うのです。

ペトロはイエス様から予告を受けていました。「ペトロ、あなたはわたしのことを知らないと言うだろう」と(30節)。それに対してペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と応えました(31節)。その数時間後、イエス様は捕まってしまいます。そしてペトロは、イエス様が取り調べを受けている建物の近くで、「お前はイエスの関係者だな」と聞かれますが、ペトロは「イエスなんて知らない」と答えてしまいます。自分が言ったことの約束を果たすときであったのに、嘘をついてイエスとの無関係を貫いてしまいました。このときのことについて、ペトロは「いきなり泣き出した」とあります(14章12節)。彼の中には、自分はどこまでもダメな奴だ、最低の人間だと、思いつく限りの自己否定に苛まれたのだと思います。ペトロが声を上げて泣くほどの気持ちは、想像を絶するものがあります。

ところで、「十字架を背負うイエス様」で思い浮かぶイメージというのは、十字に組まれた木材を背負う姿ではないでしょうか。しかし、実際の十字架刑は、そうではありません。まず、縦木が処刑場に建てられています。そして受刑者は横木を背負って処刑場へ歩いて行きます。処刑場に着いたときに、2つの木材を十字に組み合わせて、磔にされます。わたしが大学生の頃に通っていた教会の当時の牧師は、説教の中で、十字架というのは、縦が神さまと人との愛、そして横が人と人との愛、と語っていました。十字架が十字架であるためには、縦の木だけではだめ、また横の木だけでもだめ、と。つまり、キリスト教が伝える愛とは、神さまを愛することと、人を愛することの2つが揃ってこそ、愛と呼べるのです、と。すると、イエス様の十字架への道のり、横木を背負って、処刑場に建てられた縦木へと向かう道というのは、イエス様がすべての人をその愛ゆえに背負い、縦木としてそこに立っている神さまへと向かう道だったのではないでしょうか。つまりイエス様は、横木を背負いながら、処刑場に立つ神さまだけを見続けていたのです。イエス様がゴルゴタの丘への道で背負った横木、神さまの救いが実現されるために背負ったすべての人の中には、言うまでも無くペトロもいます。イエス様を裏切ってしまって、前を向いて歩くことができないでいたペトロを、イエス様は背負って、神さまの方へと歩いていたのです。ペトロと神さまを出会わせるために。ペトロを救おうとする神さまがいることを伝えるために。

イエス様が十字架刑に処せられるために歩く姿は、最も弱い姿でした。しかし、その歩みは神さまへと向いていました。わたしたちもイエス様に背負われながら、イエス様と一緒に人生を歩んでいます。神さまへと向かって。そして、一週間のはじめに、この十字架を見て、イエス様が自分を背負ってくださって、神さまのところへと連れてきてくれたことを思うのです。自分の力だけで生きてきたのではなく、神さまの力が自分の中に働いていた日々であったことを思うのです。これから始まる一週間、それぞれの生活で困難に思うこと、自分の何ともいたらないことかと痛感することがあるかと思います。しかしイエス様に背負われ、神さまへと向かって歩き続けるのです。次の週も、イエス様に背負われた者同士、この十字架のもとで再び会いましょう。

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