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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教  >ラザロの復活@〜栄光のために〜


■無情
「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」。しかし、知らせを聞いたイエスは、ただちにラザロのもとに出発したのではありませんでした。イエスは言いました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」。この病が行き着く先は死ではなく、神の栄光である、と。そして、二日間もそこから動こうとしなかったのでした。それは明らかにラザロの死を敢えて待っていたということです。マリアの思いになれば、あまりに無情な話です。彼女は、愛するラザロに迫る死を恐れ、何もしてやれない無力さを嘆き、イエスの到着を待ち侘びながら、激しく心騒がせていたことでしょう。死んでしまったらおしまいなのですから。死は、永久にその人を奪い去り、二度と語らうことのできない断絶を彼らにもたらすのです。ひとたび死が訪れたならば、人がどんなにこれを拒み、憎み、叫んでも、一切かまってなどくれないのです。

■死はわたしたちを忘れない
ところで、もし仮に奇跡的にラザロの病が癒やされたり、あるいはこの後のストーリー展開ですが、死んでしまったラザロが生き返ったならば、それで問題は解決したことになるのでしょうか。そうではありません。たとえラザロが生き返ったとしても、彼はやがて年老いて二度目の死を迎えたに違いないのです。死は絶対に避けられない人間の定めであるからです。たとえ私たちが自分の死を忘れて元気に日々を過ごしていたとしても、死はわたしたちをひと時も忘れてはいないのです。死は常にわたしたちの人生の内に秘かに伴っているのです。

■死に対し「動じない」イエス
イエスが、その場を動かなかったのはなぜでしょうか。それは、「死は人の定めであって諦めが肝心だ」と決め込んでいたとか、イエスはラザロの生死や人々の嘆き悲しみに無関心であったということではありません。イエスは、この後、墓に納められたラザロのもとに行き、彼の死を嘆き悲しむ人々を見て、激しく心震わせ、涙を流されたのでした。イエスは確かに誰よりもラザロを深く愛していたし、人々の悲しみと涙に寄り添われたのです。しかし、その上で、イエスは、人々の心をかき乱し翻弄する死に対して、決して「動じなかった」のです。

■「わたしたちの友ラザロが眠っている」
二日が経過した時、イエスは弟子たちにそう言いました。イエスは、ラザロの死を「眠り」と表現しましたが、弟子たちはこれを真に受けて「ラザロはまだ生きていて眠っている(昏睡状態にある)と理解したようです。無論ラザロは死んだのです。しかし、イエスがこれを「眠り」と言われたのは、死が命の終わりではなく、通過点であることを表すためです。命を創造される神の愛は、死をもって終了しません。神の愛は、「はい、ここまで」「ここから先は踏み込むことができない」というような限界を持たないのです。死を前に屈してしまう程度の愛ではない。あなたを造り、生かす神の愛のゆえに、死はすべて終着点ではなく、一時の「眠り」なのです。
人の命はなぜ尊いのか、死んで虚しく過ぎ去る儚い存在だからではありません。それは死というものを終着点として見つめるこの世の人間の視点に過ぎません。人の命が尊いのは、神が、ご自身に象って創造するほど、死にも屈しないほどのとこしえの愛をもってとらえていてくださる存在であるからです。人はその永遠なるものを思う心を与えられているのです(コヘレト3:11)。その永遠なる愛を見つめ、これに根差して生きるために私たちはここに集められているのです。

■光は暗闇の中で輝いている
「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」(9節)。 人生の昼、人はそれぞれ目に見える希望、目に見え手で触れられる頼みがある内は、それを光として生きていくことができるのでしょう。しかし、人生の夜が訪れた時、つまり、それまで目に見えていたはずの希望の光が失われ、頼みとしていた綱が切れ、深い闇に包まれてしまう時、そこで知るのです。自分自身の内には希望となり頼みとなる光がないということを。自分というものがどんなに無力な者であるかがはっきりするのです。自分の内には光がない、その現実を突きつけられる最たるものこそ、死です。
自分自身の内には光を持っていない無力な人間、死の闇に包まれて絶望するしかない人間。
しかし、「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)のです。あなたのまことの光である神の愛があなたの命を照らしている、この福音を示すために、今、主イエスはラザロのもとへ向かっていくのです。ラザロの死と復活において示される神の愛、それは今日、十字架に死なれ復活されたイエス・キリストの命に与ったすべてのものにとっての光です。

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